浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

福の神と貧乏神

 『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』という「お経」の中に、次のような話が載っています。

 ある家に、とても美しい女の人が訪ねてきました。豪華な服を着て、見るからに気品のある女性でした。

 その女性は「私は吉祥天(きっしょうてん)という福の神です。あなたに福徳を授けに来ました」と言います。幸福の女神の到来ですから、家の主人は大変喜んで、家の中に招き入れました。

 ところがその後から、もう一人の女性が入ってこようとしています。こちらのほうは、見るからにみすぼらしい醜い女性でした。

 「あなたはどなたさまでしょうか」と主人が聞くと「私は黒闇天(こくあんてん)といいます。私のいくところは、必ず災難がおきる貧乏神です」と言います。

 その主人は、貧乏神に家の中に入ってこられてはたまりません。「申し訳ありませんが、あなたには用がありません。すぐお引き取りください」と言って、無理やり戸を閉めて貧乏神を追い出そうとしました。

 するとその貧乏神である黒暗天は「先ほどの福の神である吉祥天は、わたしの姉です。わたしたち姉妹はいつでも一緒に行動しています。わたしを追い出せば、姉の吉祥天もこの家から出て行くでしょう」と言い残して立ち去りました。

 主人は部屋に戻ると、やはり吉祥天の姿はどこにも見当たりませんでした。

 わたしたちはただひたすらに「福の神」を求めます。しかし仮に「福の神」が来ても喜ぶのははじめだけですぐに飽きてしまい、次の「福の神」を求めていくのです。

 それでは幸せとは何かというと、自分の思い通りに目の前にものごとが運ぶと言うことでしょう。逆に自分の思い通りに運ばないことを「貧乏神」といいます。つまり自分の思いによって「福の神」と「貧乏神」を作り出しているだけなのです。

 だいたい自分の人生が思い通りになると考えることが、傲慢のいたりなのです。また自分にとって都合のよいことが、周りの人にも都合がよいとは限らないのです。いや周りのことなど考えてはいないのです。むしろ自分の幸せのために、周りの人を踏み台にしているのです。踏み台にされたほうはかないません。自分の都合で「役に立つうちは大切にするが、役に立たなくなったら邪魔になる」と考え、それがやがて自分自身にはね返ってきて、自分まで邪魔者にしていくのです。こんな人生でよいのでしょうか。

 わたしの人生を「お念仏して生きてくれよ」と願われたのです、お念仏とは、わたしが仏様を念ずることではなく、仏様に念じられている私であることに気づくことなのです。「お前をかけがえのない仏の子として、導きはぐくみ育てていくぞ」という言葉に導かれながら、お浄土に向かって歩む人生が与えられるのです。合掌

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