浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

いのちのめざめ

 私はかけがえのない"いのち"を生きながら、それにも気づかずに、また自己中心の考え方である煩悩を燃やしながら、そのことも知らずに生きています。

 目の前にお金をつまれたら、やはり欲しいものです。よく遺産相続でもめる話を聞きますが、遺産はあればあるほど、相続争いのもとになるのでしょう。私は実父が元気な時から「遺産はいらない」と言い切っていました。しかし実際に遺産相続の話になったときは「少しぐらい分けてくれたら」という思いが出てきました。遺産相続放棄の書類に署名と実印を押すのに、どれだけの思いがかけめぐったことか……、これ以上は恥かしくて。それだけではなく名誉も地位が欲しいのです。これが私の持ち前なのです。

 親鸞聖人は

煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ

と、煩悩とは私の身体を煩わし心を悩ませる元凶なのだといわれるのです。迷い中から出ようともせず、逆に自分から進んで迷いの中に埋没しきっているのです。その自分中心の考え方により、"いのち"も自分のための道具としか見ていないのです。「役に立つ」か「立たないか」と考え、「立たない」中に「邪魔になるもの」と「どうでもよいもの」と分けていくのです。こう考えている時は、"いのち"を見ているのではなく、道具として"いのち"の影を見ているだけなのです。「そんなものを本物だと思うなよ」というのが仏さまの教えなのです。「役に立つうちは大事にするけれども、役に立たなくなったら邪魔になる」という考え方が、自分はもとより他人をも共に傷つけていると仏さまは教えられているのです。

 自分の煩悩を認めたということは、仏法を認めたことになるのです。仏法を受け入れるとは、「何が正しくて、何が正しくないか」と判定する基準を受け入れ、仏法に従って生きる人間に甦っていくのです。つまり阿弥陀様の秩序の中に入り、如来の智慧を与えていただくことなのです。

 親鸞聖人は

如来は衆生を 一子のごとく憐念(れんねん)

といわれています。私にとってはまわりの人々は、競争相手であったり、敵であったり、味方であったりしました。しかしそれは私の都合なのです。

 阿弥陀さまは私のことをかけがえのない一人子として、関わり果てて下さるのです。私を阿弥陀さまの一子のごとく関わりはてるように、私のまわりの方も、私の都合をこえてかけがえのない"いのち"を生きている人なのです。その阿弥陀さまの智慧により本当の"いのち"に目覚めることが大切なのです。

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