浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

菩薩道

 舎利弗(しゃりほつ)という仏弟子にこのようなお話があります。

 舎利弗がかつてすべての人を救おうという願いを持って修行していました。ある時に1人の老人と道で出あいました。その老人は「私は眼がない。お前は2つのよい眼を持っているのだから、その1つの眼を私にくれ」と舎利弗に言ったのです。それで舎利弗は「私の眼を本当は2つともあげたらよいのだけれども、私も1つ持っていた方が都合がよい。だから貴方は1つで辛抱して欲しい。1つずつに分けましょう」と、自分の目の玉をくり抜いて老人にあげました。すると老人がくり抜いて血が滴っている眼を見て「こんな汚い眼はどうしようもない」と言って、その眼を地面に叩きつけて足でギュウと踏みにじったのです。それで舎利弗は「痛い目をして大切な眼の1つをやった。それをありがたくいただけばよいものを、地面に投げ捨てて足で踏みにじった」と怒ったのです。そして「人を助けるなんていうことはもう止めた。それよりも自分自身が心安らかな境地に到達するための修行をしよう」といったのです。

 このように舎利弗は人を助けることを止めて自分の徳の完成だけを目指すようになったために、小乗の聖者になってしまったといわれるのです。

 すべての人々を救うというのは格好よいのですが、実は人を救って喜んでもらえると思ったら大間違いなのです。まず嫌がられます。逆に救おうと思ったら嫌がることをしなければいけないのです。例えば五戒の中に「お酒を飲むな」と言われていますから、酒飲みに「酒を止めなさい」と言ったら嫌がられます。

 しかし最終的には、その人が幸せになることを見通して、そのために自分は支えていくのが菩薩道なのです。「これはよいことだ」と思ってやったことが、裏目に出てしまうこともあるのです。だから人を救うということはすごく難しいことで、途中で脱落してしまうのです。菩薩はそれを克服しながら修行を続けていくから大変なことなのです。

 さあ、あなたに菩薩道を歩むことができますか。私にはどうしても歩むことができません。そのような困難な道を歩みつづけて、すべての人々の救いを完成された方が阿弥陀さまなのです。

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