浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

浄土真宗のおもしろさ

 浄土真宗はおもしろい宗教だと思います。「おもしろい」というと「とんでもないことを…」と怒るかたもいるかもしれません。

 阿弥陀さまの願いは「ほんとうに疑いなく私の国、お浄土に生まれると思え」といわれます。これはすさまじいことです。死んでいる人間をつかまえて「これは死ではない。浄土に生まれていったのだ」と言い切れることは大変なことです。

 むかし中国に道吾(どうご)という禅僧がいました。あるとき檀家さんから葬儀をしていただきたいというので、弟子の漸源(ぜんげん)を連れてお葬式に行きました。いよいよ棺桶のふたを開いて、道吾が亡くなったかたに引導をわたそうとしたとき、漸源が棺桶を押さえて「これ死か、これ生か」と問いかけました。「この人は死んでいるのですか、それとも生きているのですか」と聞いたのです。考えてみると、死んでいるものに引導を渡しても、聞く耳もさとるこころもないから無意味なのです。もし生きているならば葬式すること自体が無意味じゃないかというのでしょう。おそらくもっと端的に「生とは何か、死とは何か」とたずねたのでしょう。

 そのとき道吾は「死ともいわじ、生ともいわじ」と答えました。すると漸源は「どうしていわないのか」とつめよります。しかし道吾は「何としてもいわない」といいはります。「いわなければ葬式はださせない」と、棺桶の前で禅問答をはじめました。これでは葬式が進行しません。遺族たちは困ってしまって、1人が「禅問答は後にして、とにかく葬式だけはだしてください」といい、葬式だけはすませました。

 しかし帰り道で、また漸源は同じことを問いかけ、道吾は同じ答えをくり返すばかりでした。しかしそれからずいぶんたって漸源は生死を超える悟りを開きます。そのときに漸源は「あのとき師匠はようこそ答えてくれなかった。言ってくれなかったおかげで私は、生死のまことの意味をさとることができた」と喜び、感謝したというのです。

 死んでいる人をつかまえて「生きているのか、死んでいるのか」という弟子もすごいが、「いわじ」といった師匠も師匠です。しかし言ったら嘘になるというところが道吾にはよくわかっていたのでしょう。いかにも禅問答の話です。

 しかし阿弥陀さまは禅問答はしません。「私の国に生まれると思いなさい」といわれます。しかし浄土に生まれるという「生」は、死に対する「生」ではなく「無生の生」です。迷いの生を超えた不生不滅の悟りの境界に生まれることなのです。

 しかしながら生死にとらわれている凡夫には、「無生の生」といってもわかりません。私の凡夫の情に応じて「生」とのみいわれたのです。このように死ぬのではなくお浄土に生まれることになると、死んだ人はやすらかな涅槃の境界に生きつづける方だということになります。

 私たちは亡くなったかたに対して「かわいそうだ、気の毒だ」といわずに、「死に別れることは淋しいし悲しいけれど、亡くなったかたはお浄土に生まれて、真実の安らぎをえられたかただ」といえることができるようになるのです。逆に、お浄土に生まれて、仏様にさせていただくものが、どう生きていくべきなのかを問われるのです。

 『法華経』に「仏子は、仏の口より生ず」といわれています。「仏の口より生ず」とは説法を聞いて、仏子としてめざめたということです。浄土真宗のみ教えは、「浄土にうまれる」という言葉で、仏の子としてよみがえることであるといってもよいでしょう。合掌

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