浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

喪中のハガキに思う

 「明けまして…」といったと思ったのが、ついこの前なのに、もう3月になり桜の季節になりそうです。年々早くなるといった言葉が現実味で感じるのは年のせいでしょうか。

 年とともに気になるのが年末になるとやって来る「母を失いましたので、御年賀の礼をさし控えさせていただきます」という喪中のハガキです。

 それにより、身内の人を亡くされたことを知ります。ほんとうに親しい人と死に別れることは、悲しいことには違いありません。しかし仏様とはそのことをはっきりとこういうのです。「生まれてきたものは、必ず死がやってくる」と。

 私も皆さんもいやでしょうが、この死という関門をいやおうなしに通らねばなりません。その壁をどう破るかが問題なのです。しかし押しても突いても破れないその壁の前で、私たちははじき飛ばされてしまうのです。

 江戸時代に讃岐の庄松さんという人がいました。京都へお参りをした帰りに、播磨灘(兵庫県の瀬戸内の沖合い)で突風に遭ったそうです。船がもう少しでひっくり返るくらいに荒れて、皆が死ぬのではないかと真っ青になりました。突風がやみ、フッと気がつくと庄松さんの姿が見えません。「どこへ行ったのだろう」とあちこち探しますと船底で寝ていたのです。その時に「こんな所で寝ている奴があるか、今、生きるか死ぬかの境目だったんだぞ」と起こしました。すると庄松さんは目を覚まして「ここはまだ娑婆か」といったそうです。

 これを読んで何を言っているか分らない人もいると思います。これを聞いて「ありがたい」といえる人もいるでしょう。これをどう思うかという感じ方が面白いし、大事だと思います。

 この頃、死ぬことに答えを出している方は、生きていることにも答えを出しているのではないかと思います。死すべき"いのち"をいま一生懸命生きているのではないかと思います。

 私はいつ死ぬか分りませんが(分らないから平然と生きているのでしょうが)死亡通知も年賀状で送れたらと……思っています。「南無阿弥陀仏」

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