浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

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『歎異抄』とは

 今世界で一番読まれている仏教書は『歎異抄』ではないかといわれています。英語などさまざまな国の言葉に翻訳されています。

 これを書かれたのは親鸞聖人ではありません。『歎異抄』の中で親鸞聖人と厳しい対話の相手をしている「唯円房」だといわれています。しかし『歎異抄』は親鸞聖人ご自身の言葉が非常に正確に収録しています。その意味では親鸞聖人の直接書かれたものに匹敵するのです。

 また親鸞聖人の主著である『教行証文類』は比叡山延暦寺や奈良興福寺のお坊さんに対して「師である法然聖人の念仏往生の教えが仏教の真理であることをあらわす」ために書かれたもので、公式に構えて書かれた『教行証文類』はたいへん難しいのです。

 その点で日常の生活の中でお弟子に漏らされた言葉の中に、大変味の深い言葉がたくさん出てくるのが『歎異抄』です。その意味で親鸞聖人の一番親鸞聖人らしい姿が出てくるのです。

 『歎異抄(異を歎く抄)』とは、誤って脇道にそれている姿を嘆くのです。だから「どうぞ真実に帰って、本当の安らぎの世界を味わって下さい」という思いを込めているのです。だから「異を破る」といわず「異を歎く」という言葉の中に異端者を歎いているのであって、ここでは宗教裁判はしないのです。非常に深い心でもって書かれていることがわかります。

 本当の意味での批判は非難であってはなりません。それはどこまでも相手が本当に幸せになってくれることを願いながら、その説の過ちは批判するけれども、人格を損ねることは許されません。しかし私たちは非常に危ないことをするのです。

 普通「邪を破って正を顕す」というのは大事なことですが、破邪がかえって人を破ることがあるのです。ケンカというのは言葉の行き違いで、言い足らなかったか、言い過ぎたかのどちらかなのです。たしなめるときにそれをまちがえると「それは私も悪かったが、そんなに言わなくても良いではないか」と収拾がつかなくなります。このようなときは正しい言葉が相手を傷つけるのです。人を破って傷つけてはいけません。これは大変大事なことなのです。

 『歎異抄』は相手に対して安らかな落ちつける道に帰ってきてくれることを願いながら書いているのです。

なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

というあたりに『歎異抄』を書いた人の心の深さがあります。『歎異抄』が700年たって、なおかつ人々の心を打ち続けてきたのは、この著者の心が深いところからでているということなのです。

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