SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

本願寺の歴史(15)

蓮如上人(本願寺第8世)9

 本願寺の坊舎は正月に続いて3月には比叡山(ひえいざん)衆徒により完全に破却されました。その後に種々の曲折を経て本願寺と比叡山衆徒とは和解することになりました。その時に蓮如(れんにょ)上人に帰依(きえ)した三河国(現 愛知県岡崎市)佐々木の上宮寺(じょうぐうじ)門徒と近江国(現 滋賀県)の法住の堅田(かたた)門徒が協力して金銭を調達し、延暦寺(えんりゃくじ)へ納めたということです。しかし金銭を納めたことで根本的な対立関係が解消したわけではありません。この後、近江の諸門徒は、しばしば比叡山衆徒との合戦を繰り返し、本願寺教団と比叡山との緊張は深まっていきました。

 蓮如上人は破却された本願寺の坊舎にも、東山大谷の地にも未練はありませんでした。思えば長い屈辱の旧址(きゅうし)にすぎません。大谷破却は法難というよりは、本願寺再建の新しい構想を大胆に描き出す好機でさえありました。独立性をもちえなかった古い真宗が姿を消し、新しい真宗教団が生まれ出る象徴でさえありました。

 都の本願寺に未練はないといっても、さしあたり祖像を移し、かりそめの住居を定める目当てさえ立っているわけではありません。来襲とともに東山三条北の定法寺へ避難した蓮如上人は室町(むろまち)、金宝寺、壬生(みぶ)辺りを転々とした末、都を脱出し、3月には河内国(現 大阪府八尾市)の久宝寺(きゅうほうじ)へ身を寄せました。祖像は大きな木像で移動に不便なため、金宝寺に預け、蓮如上人は摂津、河内に身をひそめました。

 蓮如上人は再起の第一歩を近江から踏み出そうと考え、そこへ動座する機会を当初からうかがっていました。しかし破却の年内にはその機会はつかめず、蓮如上人は近江の情勢が小康を得るのを待って、金森の道西らに迎えられて彼の道場に入りました。それには堅田の法住が奔走して80貫文の礼銭で比叡山と話をつけました。押収されていた「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の本尊も返却され、礼銭分の小康が得られました。この時から蓮如上人は祖像を奉じて近江門徒の間を転々として5年の歳月を送られました。上人の足跡の残るところは近江栗太(くりた)野洲(やす)の両郡に10ヶ所を数えますが、本拠は堅田の法住の番場(ばんば)道場(本福寺)に置かれました。ところが近江も安泰ではなく、応仁2年(1468)3月には「堅田大責め」と呼ばれる堅田衆徒と比叡山衆徒との激戦が交えられます。祖像は堅田から大津の道覚の道場に移座し、ついでに三井寺(みいでら)境内の南別所の近松に坊舎を建て、そこに安置されました。三井寺が天台宗であるにも関わらず、その境内に坊舎の建立と祖像の安置を許したのは、同境内塔中満徳院(たっちゅうまんとくいん)の配慮によってでした。延暦寺と三井寺は平安時代に抗争分裂して以降、対立状態が続いており、しかも三井寺も僧兵を擁していたので容易には攻撃を受けない安全な場所でした。

 上人が祖像を三井寺境内の近松坊舎に移住されたころ、京都は応仁・文明の乱で騒然とし、多数の人々が難を避けて地方に移り住んでいました、その頃、上人の内室・蓮祐尼(れんゆうに)が死去されました。上人はその失意から立ち直る意味もあってか、5年余りにわたって住された近江の国から越前国(現 福井県あわら市)の吉崎(よしざき)に移住されることとなります。

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