SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

本願寺の歴史(2)

覚如上人

 覚如(かくにょ)上人(1270~1351)は大谷廟堂(おおたにびょうどう)の寺院化を目指され、「専修寺(せんじゅじ)」という寺額を掲げられますが、専修念仏(せんじゅねんぶつ)を嫌っていた比叡山(ひえいざん)から激しい批判をうけ、寺号を変更して本願寺(ほんがんじ)とされました。この寺号は元亨(げんこう)元年(1321)2月に鎌倉幕府に提出した書状にも見え、この頃から本願寺の公称が始まったと考えられます。

 ところが覚如上人が廟堂の寺院化を推進されたことには次のような理由がありました。覚如上人は3度にわたり関東の門弟を行化されますが、関東の門流は親鸞(しんらん)聖人の滅後、およそ半世紀を経るなかで、一部には俗信仰と交わり異端的な様相を呈するものも現われていました。しかもその影響は近畿や北陸にまでおよんでいました。上人はそのような状況を是正するために廟堂を寺院化し、ここを中心に各門流を統率し浄土真宗の興隆をはかろうとされました。

 大谷廟堂を本願寺と称して寺院化するためには、段々と堂宇や内部の様式などを寺院風に改変していき、次第に大谷廟堂は本願寺という寺院として世間で認められるようになっていきました。

 これにともない廟堂の留守職(るすしき)(管理職)は住持職(住職)としての意味をもつようになり、やがて門主制度へと展開するのであります。また覚如上人は留守職強化のために三代伝持(さんだいでんじ)血脈(けちみゃく)ということを唱えましたが、それは真宗の正当な法流が親鸞聖人・如信(にょしん)聖人・覚如上人の三代にあることの主張でありました。中でも如信上人は親鸞聖人の孫、すなわち善鸞(ぜんらん)の子であり、幼年期より青年期まで親鸞聖人の手元で育ち、聖人の教化を直接に受けた人であり、覚如上人に真宗の法門を伝授した人であります。覚如上人は更に上記の三代伝持の御影を製作したほか、真宗の法流を開祖親鸞聖人・第2代如信上人・第3代覚如上人とし、その正嫡が自分にあることを宣揚すると共に、本願寺が教団の中心であることを強調していきました。

 しかし覚如上人による本願寺を中心とした教団の形成は順調には進みませんでした。関東には高田門徒をはじめとする親鸞聖人直弟の諸門流がありました。それらの門流は京都の本願寺には帰属せず、独立教団的な色彩を強め、それぞれの門流は各地に一派を作り、自らの本山を形成していく方向をとっていきました。その結果、本願寺は、およそ1世紀にわたって低迷を続けることになりました。

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