SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

本願寺の歴史(8)

蓮如上人(本願寺第8世)2

 蓮如(れんにょ)上人は応永22年(1415)2月25日(新暦4月13日)、桜の花の散った頃、京都東山大谷にある本願寺の一隅に元気のよい産声(うぶごえ)をあげて生まれました。父の存如(ぞんにょ)上人は弱冠20歳、まだ部屋住みの身で、住持職は祖父の巧如(ぎょうにょ)上人が持っていました。祖父といっても、40歳の働き盛りであります。

 存如上人にとっては長男、巧如上人にとっては初孫の男児誕生で、一山あげて祝福を受けるところでありますが、いくぶん肩身の狭い思いをいだかなければならない誕生でありました。その母は祖父の召使いで、婚姻関係のない若い男女の間に生まれた非嫡出子です。存如上人の長子ではありますが、母は正妻になれる家柄の出ではありませんでした。備後尾道あたりの生まれと言われるだけの、名も後世には伝わらぬ女性だからであります。そのために彼女はこの子の行く末が案じられ、ひとしお(いと)おしかったのです。

 この母に蓮如上人(幼名 布袋(ほてい)また幸亭(こうてい)丸)は6歳の頃まで養育されました。彼女は正妻として認められはしませんでしたが、蓮如上人の母親としての扱いは受けていたのであります。

 この頃の本願寺は極貧の底にありました。もともと本願寺創設者の覚如(かくにょ)上人の頃から貧しかったのですが、布教が意の如くにならなかったという経過のまま、巧如・存如両上人の時代を迎えています。親鸞聖人の廟堂(びょうどう)である五間四面の小堂と、存如上人一家の狭小な住坊があるだけで、本堂の阿弥陀堂はまだ出現していませんでした。

御本寺様(じん)せきたへて、参詣の人一人もみえさせたまわず、さびさびとしておはします
(『本福寺跡書』)

 これは蓮如上人誕生の2年前頃の本願寺の様子を記したものでありますが、門徒の志で生計を立てなければならない寺でありながら、詣でる人が全くないというのでは、その貧困のほども察せられます。

 不遇な生まれと貧困な暮らし、それが蓮如上人(布袋)の幼少時代でありますが、かろうじての幸せは賢い実母によって養育されたということであります。「三つ子の魂百まで」と言われるとおり、遺伝に加えて乳児期と幼児期の教育が、その人間の性格を決定付けるとすれば、もしこの時期に実母がいなかったならば、その後の華々しい蓮如上人の活躍はなかったかもしれません。

 しかしその生母も、父・存如上人が海老名(えびな)氏の娘・如円(にょえん)と結婚する話が決まった時、わが子の像を絵師に描かせ、きちんと表装までしたものをたずさえて、応永27年(1421)12月28日(新暦2月9日)、住んでいる所の妻戸を開き、人知れずどこへともなく消えたのであります。

 そうでなくても白い目で見られることの多かった幼子布袋は、捨て子の運命を強いられることになります。母は蓮如上人の絵姿を手元に置き、我が子をしのびますが、蓮如上人(布袋)も自分の胸底にしかと母の面影をきざみこんだことでありましょう。

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