浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(20)

東国への移住4

 親鸞(しんらん)聖人が東国(関東)に滞在された期間は、1214年から1232年頃までの約20年間とされております。この時期は鎌倉幕府を瓦解(がかい)に追い込もうとした後鳥羽上皇らと、幕府の執権・北条義時との軋轢(あつれき)が深まるばかりでありました。宗教界も、依然として念仏弾圧の嵐が吹き荒れ、京の都は騒然の度合いをより一層濃くしていました。

 このような時代に4・5日滞在された佐貫(さぬき)を出て、常陸(ひたち)国(現 茨城県)の稲田に向かわれる途中の聖人が庵を結ばれたのが、あの「ガマの油」で有名な筑波山が最も美しく見える下妻(しもつま)の「小島草庵(おじまのそうあん)」でした。聖人がこの地に滞在されたのは約3年間といわれています。何の遺跡も残っていない、この小島草庵跡(下妻市)は関東鉄道常総線の下妻駅南東約1.5キロの地点にあります。今でも少しばかりの町並みを出ると見渡すかぎりの田畑が広がる広大な関東平野の中に、周囲の景色に不釣合いとも思える大銀杏(いちょう)が草庵跡のありかを示してくれています。

 聖人のご一家が前後3年は止住されたであろうと言われる草庵の跡地には、その消息を伝える遺跡も遺品もありません。ただ、地元の新聞社の建てた顕彰碑と、市の教育委員会がその由来を書きしるした案内板、それに「親鸞聖人御旧跡」と表面に刻まれた石碑のみが、草庵の跡地であることを告げているとのことであります。

 この小島草庵を東国伝道の最初の拠点として、霞ヶ浦沿岸地域や利根川流域、それに筑波山麓の村々を、他力本願のみ教え伝達のため歩き回られたであろうことは想像に(かた)くありません。

 聖人の東国での伝道を考える時、この地の宗教事情も見ておかねばなりません。先ず聖人の東国入りの前、法然(ほうねん)聖人の在世時代に、すでにこの地に専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えが伝わっていたということであります。そのことは

つのとの三郎は(法然)聖人根本の弟子なり

と『西方指南抄』で聖人ご自身が言われていることなどからも推察されます。

 この伝道開始に先立つ念仏の教え流布ということが、聖人の行動を力強く推し進める力となったであろうことは容易に想像できます。高野念仏の流れを汲んでいたと思われる真仏が聖人の門に入り、後の初期真宗教団の形成に大きく尽くしたことなどは、そうしたことの1つの表れと言えると思われます。

 それとは反対に『御伝鈔(ごでんしょう)』に出る山伏弁円(べんねん)による聖人殺害未遂事件は、当時、この地に広まっていた天台や真言などの密教系の民間信仰と、聖人がすすめる念仏信仰の対峙するすがたを象徴的に表したものと受け取れるでしょう。これは聖人の伝道布教により、多くの民衆が他力本願の教えへと傾く気配を見せ始めたことに、既存の宗教勢力が危惧の念を抱きつつあったことを物語るものと言えましょう。

前のページに戻る