浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(22)

東国への移住6

 前回も書きましたが、親鸞(しんらん)聖人の東国(関東)在住時代に聖人に師事した門弟には少数の武士や商人等、それに大部分の農民等のいろいろな人達がいましたが、その総数がどれほどであったかということや、門弟の身分・居住地を聖人の在世当時の史料によって明らかにすることは、現在のところ不可能であります。前回に引用した『親鸞聖人門侶交名牒(もんりょきょうみょうちょう)』や『二十四輩牒(はいちょう)』その他の資料に名前の見えるもの等、総数70数名が聖人の住居である稲田草庵(いなだのそうあん)を中心とする周囲の国々に散在していたと思われます。

 これらの聖人に親しく面接して、その口から教えを受けた門弟は「面授口決(めんじゅくけつ)」と言われましたが、その多くはそれぞれに道場(法を伝える場所)を作り、自らその主となって多数の信者を集め、何々の門徒と称しました。道場の規模については具体的に判明していませんが、道場主も聖人と同様に出家精進の生活をするのではなく、肉食妻帯の生活を営み、中には田畑を耕作したり商業に従事していた人達もいたと思われます。従って道場といっても、特に伽藍(がらん)風の建物があるわけではなく、道場主の私宅をそのまま転用したものが多かったと思われます。本尊としては阿弥陀仏の名号か、または名号を中心にインド・中国・日本の高僧先徳や聖人等の肖像を配した光明本尊を安置したものが多かったようであります。道場に所属する門徒の数も不明でありますが、聖人が関東におられた間に道場主を通じて聖人と結ばれた念仏者の数は、当時の少ない人口の中でさえ数万人はいたと思われます。

 この道場主達は聖人と門徒の間に立って意欲的に活動しました。道場主が第1に努めたことは、聖人に面接して、計り知ることが出来ないほどに奥深い信心為本の教義をよりよく理解し、自分の信を堅くすると同時に、門徒にもこれを伝え、その信を高めることでありました。

 聖人の魅力ある伝道を受け、道場主たちの宗教活動は更に活発になりました。それは喜ぶべきことでありましたが、それと同時に教団の前途にとって暗い影が早くも現れました。道場主が自分の経営する道場の発展を願うあまり、専修念仏を信じない者を門徒に引き入れるだけでは満足せず、同門の他の道場の門徒をも自分の道場に吸収しようとして(みにく)い争いを始めたことがそれであります。

 このように門徒の争奪に狂奔(きょうほん)する有力門徒の動きに対して、聖人は強く反対しました。袈裟(けさ)をかけ他人に仏法を説いていても僧ではなく、妻子を持ち在家の人と同じ生活をしていることを聖人は深く反省して、自分について法を聞こうとする門弟たちを弟子と呼ぶのを差し控え、同朋(どうぼう)同行(どうぎょう)といいました。しかし門弟のうちでも道場を経営し門徒を(よう)するものは聖人のこの心持を理解せず、門徒に対しては出家修行の清僧らがその門弟を見るのと同じ態度を取りました。

 弟子に対する考え方が聖人と有力道場主とで食い違ったことが、その後の教団の発展に大きく影響しました。

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