親鸞聖人の生涯(25)
京都への帰洛2
先ず親鸞聖人が82歳の頃、妻の恵信尼さまが、聖人の身の回り世話を末娘の覚信尼さまに頼んで、生まれ故郷の越後国(現 新潟県)に帰られました。それは越後には実家の三善家から相続した土地などの財産があり、又少なくとも8人の使用人を抱えており、それらを管理するため、更に先に帰っていた子ども達や、親に先立たれた孫たちの生活を世話するためであったと思われます。このような一家の経済的な事情が有ったにせよ、敬慕してやまない夫と、遥か隔てて暮らさねばならなかった恵信尼さまの、辛く悲しい心情は察するに余りあるものがあります。そしてそのまま夫の臨終にも死後にも京都に帰られることは、聖人滅後6年にして87歳で往生されるまで、ついにありませんでした。
次に悲しい出来事は聖人が84歳の頃、長男の善鸞を義絶せねばならなかったことであります。善鸞は最初は聖人の代行として東国(関東)に残してこられた門弟たちを教化するために東国に行かれたのでありますが、しかし、そのうちに善鸞の言うことが変わってきました。それは東国各地の門徒たちが、聖人から教えられたとして言い伝えている法義はみな誤っていて、自分(善鸞)が聖人から直接に聞いたことだけが正しいと主張しはじめました。善鸞は幕府や有力者に働きかけて活躍をはじめた事により、念仏者の集団は大混乱を生ずるばかりでした。その結果、聖人は「親について無実のことを言いふらし、下野や常陸の念仏者を動揺させ、幕府や六波羅に訴えた罪は許せない」として、父と子の縁を切ることを善鸞に告げるとともに、主だった門弟にもこの事を通告せられました。
正しい法を守り抜くことと、断ちがたい親子の情との間に立って苦悶しながら、義絶までせねばならなかった84歳の聖人は、まことに断腸の思いであったことでしょう。
聖人は弘長2年の秋頃から体調を崩し、蓮位や末娘の覚信尼さま等の世話を受け、11月下旬には衰弱が進む中、念仏を称えながら28日(新暦1263年1月16日)に没しました。臨終に臨んだのは、弟の尋有、末娘の覚信尼、越後国におられた妻・恵信尼やその子どもたちを代表して父を見舞った益方入道、そして高田の顕智、遠江国の専信等でありました。覚如上人の『御伝鈔』下第6段には
聖人(親鸞)弘長二歳 壬戌 仲冬(陰暦11月)下旬の候より、いささか不例(病気)の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日 午時(正午頃) 頭北面西右脇(お釈迦さまが入滅した時の姿)に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。ときに頽齢九旬(90年)にみちたまふ。…(中略)…終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。
と記されております。
思えば90年、1世紀に近い聖人のご一生は実に「いばらの道」でありました。しかし弥陀の本願を信じ、念仏に生かされることによって、この「いばらの道」がそのまま、真実への白道だったのであります。