浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(3)

比叡山へ

 前回は親鸞(しんらん)聖人が9歳の春に出家得度(とくど)して、僧となられたことを書きました。

 僧・範宴(はんねん)となったとはいえ、9歳の子どもです。難しい学問も修行も出来るとは思われません。いったい何歳のころ比叡山(ひえいざん)に上ったか歴史上は不明です。本願寺の第3代覚如(かくにょ)上人は9歳の頃と伝記に書いてありますが、はっきりした証拠もありません。比叡山に上っても多分、最初の数年間は稚児(ちご)的な扱いの中での学習や雑用の手伝いなどをしていたと思われます。歴史の上にはっきり出てくるのは、29歳の時に比叡山の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で「堂僧(どうそう)」をしていた事と、その年に山を下りて京都の六角堂(ろっかくどう)(現在の華道池之坊流家元のある寺)に100日の間お寵もりになったことだけであります。

 『浄土真宗必携』によりますと、その頃の比叡山は天台宗の根本道場であったばかりではなく、我が国の仏教の最高学府として、東塔(とうどう)西塔(さいとう)横川(よかわ)に沢山の僧院をもち、多数の僧侶(そうりょ)が集まっていました。そうした僧侶集団の身分は「学生(がくしょう)」と「堂僧」と「堂衆(どうしゅう)」に分かれていたようであります。学生とは貴族や殿上人(てんじょうびと)の出身者で、華々しい栄達の道を目指す「選ばれた人びと」であります。堂衆とは学生が連れてきた従者が法師になったもので、求める心もあまりなく堕落するものがあって「叡山の荒法師」といわれ、一般の人びとから恐れられたのもこの一団でした。

 範宴と呼ばれた比叡山時代の親鸞聖人が19歳頃からしておられた堂僧とは、山内の諸堂に奉仕をする役僧や、常行三昧堂で不断念仏(ふだんねんぶつ)の行を励む念仏僧を総称したものであります。

 一見美しく見えていた比叡山上も深く入り込んでみれば、俗世間と変らず、みにくい欲望や、ねたみや争いが渦をまいていたのです。そのような中で聖人は自分を見失わず、ひたすら仏のさとりを求めて、それこそ夜を徹して教典を読み、血のにじむような修行に専念されました。しかし学問も深まれば深まるほど、厳しい修行をすればするほど今まで気づかなかった自分の行いの内容のまずしさが知られ、浄らかさも、まことも、持ち続けることの出来ない、あさましい心のすがたが目立つばかりでした。聖人は自分の力で心を磨き、行を励んで仏のさとりにたどり着こうとする、聖道自力の教えが、どのように難しいものであるかを知るにつれて、次第に心を浄土教に向けていくようになられました。

前のページに戻る