浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

一粒の米

 時折いただく折詰弁当を食べる時に「いただきます」と云って、最初に頂くのは蓋についた御飯粒。気がついて主人の方を見ると同じようなことをしています。幼い頃の習慣っておかしなものです。近頃の若い方から見れば、なんてケチくさいと云われるかも知れません。でも、私達と同世代の方ならきっと思い当たるのではないでしょうか。物のない時代に育った私達にとって、お米の大切さが身にしみているからです。

 私の亡父は「一粒の米だからと云って粗末にしてはいけない、このお米を作るのにどれだけの労力と自然の恩恵を受けているか考えてみなさい。又、一粒の米からたくさんのお米のいのちが生まれるんだよ」と幼い頃からよく云われたものです。考えてみれば一粒の米が大地にまかれると、いったいどれだけのお米のいのちが生まれるのだろうか…。

 ある方が一合のお米の数がどれ位あるか時間をかけてかぞえてみたそうです。結果は8,751粒あったとのことです。私達はこの想像もつかない程のお米のいのちや、あらゆるもののいのちを頂き、支えられて生かされているのです。

 現代は科学技術の進歩や経済の発展により、昔にくらべれば何不自由のない豊かな生活が出来るようになりましたが、反面自然の恩恵さえ見失っているように思われてなりません。

 たった一粒のお米でも、その尊さに気づく時、はじめて生かされている有難さと如来さまのお慈悲を味わうことが出来るのではないでしょうか。 合掌

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