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「阿弥陀さまの教えは信じられません」と言われる方がいらっしゃいますが、これは当たり前のことです。お経には、初めから「信じられます」とは書かれておりません。お釈迦さまはそれを分かったうえで説かれているのです。
『仏説阿弥陀経』に「世間難信の法」と書かれています。「難信」とは難しいけれど、教えを聞くうちに分かってくるということではありません。「不可能」ということで、人間が信ずることは絶対にできないというのです。
人間の考えも同じで、自分の考えと違ったものが入ってくると、それを排除しようとします。煩悩に支配されている人間に対する、煩悩を拒否するような言葉は、正しく異物であり、激しい拒絶反応を起こします。特に阿弥陀さまの教えは、決して理解することはできません。私の理解できないことに人生を委ねるというのは大変なことなのです。
阿弥陀さまのご本願に「至心に信楽してわが国に生まれると思って乃至十念せよ」というお言葉があります。この言葉を受け入れることはすごく難しいことです。私たちは「生まれて死ぬ」しか考えられません。「死ぬと思うな、生まれると思え」と言われても、そうは思えません。死が生ならば、生は何なのかということになります。
阿弥陀さまは、私の生と死の枠組みをひっくり返し、私の認識の枠からはみ出すのです。私は生まれてきて死ぬという枠組みでしか捉えることができません。それを死ぬことを浄土の開ける機縁と思え、限りない“いのち”の開ける機縁だと思えと言われるのです。
では、「つかの間の“いのち”とは何ですか」と問うと、「阿弥陀さまの教えを確認する場としてのみ意味を持つのだ」と言われるのです。つまり、生きるということの意味が変わってきます。生きているということは、阿弥陀さまの教えの真実性を立証し、確認していく道場なのだということです。それのみが私が生きている意味を持つのです。
「乃至十念」とは、「たとえ十回でもお念仏申す」という意味です。ご本願のお念仏は、阿弥陀さまの智慧なのです。「あなたを必ず救う」という願いは、名となって私のところにはたらくのです。そして私に浄土の教えを聞かせ、お念仏を申させ、ご信心を与えて、悟りの世界に向かって歩む人生を開くのです。
本当に疑い深い私を、念仏者にしてくださった阿弥陀さまというのは、やはりすごいお方なのです。