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5月のことばは、近田昭夫先生(1931~2018)が2008年の真宗本廟(東本願寺)春季永代経総経において、「なぜ、絵像・木像の阿弥陀如来を本尊とするのか」という講題でお話をされた講演録の中に出てくるお言葉です。
近田先生は「浄土真宗で一番大切なのは素人感覚だ」と言われました。素人感覚とは、「わかったことにしない」ということです。小さい子どもは「どうして」「なぜ」と連発しますから、子どもの世界は新鮮なのです。確かに浄土真宗のお話は「なぜ」と考えるところから、新鮮なお念仏の味わいが出てくるように思います。
親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」という六字の名号を、あるいは「帰命尽十方無碍光如来」という十字名号などをご本尊として礼拝されていました。ところが現在は浄土真宗の本山をはじめ、どこのお寺でも木像の阿弥陀さまをご本尊とされています。またご門徒宅のお内仏は、絵像の阿弥陀さまです。親鸞聖人は名号をご本尊とされていたのに、今はなぜ阿弥陀さまの木像・絵像がご本尊とされているのでしょうか。
浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の阿弥陀堂に安置されているご本尊の阿弥陀さまはお木像で、蓮の台の上にお立ちになっている立像です。しかし知恩院をはじめ、浄土宗の阿弥陀さまはお座りになっています。なぜ浄土真宗では立ち姿なのでしょうか。
阿弥陀さまは仏の座(お浄土)から、今まさに降り立とうとするお姿で、少し前かがみになっています。人間の迷いの世界のど真ん中に、阿弥陀さまは降り立たれ、煩悩のあやうさや浅ましさを知らせ、呼び覚ましを与えてくださるのです。
なぜ絵像・木像のご本尊なのかというと、あのお姿を拝することによって、「阿弥陀さまは私の姿をご覧になって、仏の座に落ち着いてはおられなかったのだ」と気づかせるためです。そのことを私たちに知らせるため、お立ち姿をご本尊としてお敬いするのです。