浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

仏法にしたがう生き方

 科学の発展によって、現代の生活は便利で快適になってきました。しかし、心の中の世界では、権利意識が強くなり、罪の意識が乏しく、自分の欲望ばかり広げていくようになっています。

 このような私は、仏さまの教えを聞くことによって、正しい智慧の眼を開かせます。救いとは、価値観が転換することです。私のものの見方、考え方、受け取り方が一変していくような新しい智慧の領域というものを知らせていくのが、阿弥陀さまの本願の救いです。

 その救いのめあてを「逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)を恵まんと欲す」(『顕浄土真実教行証文類』総序)といわれます。

 「逆」は、5種類の反逆罪である五逆(ごぎゃく)です。五逆の1つ目は殺父(父を殺すこと)、2つ目は殺母(母を殺すこと)で、自分をこの世にあらしめ、はぐくみ育ててくれた父母の愛情を恨みでもって返すことです。3つ目は殺阿羅漢(あらかん)(阿羅漢を殺すこと)で、煩悩を断ち切って世間の人から尊敬を受ける尊い方を、逆恨みして殺すことです。4つ目は出仏身血(悪意をもって仏さまを亡きものにしようと傷つけること)です。5つ目は破和合僧(わごうそう)(仏さまの教えを心の()りどころとしている人々の和やかな集いを傷つけ破壊すること)です。

 これらは、後になるほど罪が深くなるのだそうです。父を殺すより母を殺す方が罪深いのです。また、仏さまを傷つけるよりも和合僧を破壊する方がなぜ罪が深いのでしょうか。それは、人々の拠りどころとなる和合僧を破壊することは、仏さまを殺すのに等しいといわれるからです。

 「謗」は、謗法(ほうぼう)です。謗法とは、仏法(正しい仏さまの教え)を(そし)ることで、無法の生き方をしていく者です。特に戦後は良い大学に行くために猛勉強をして知識をつけました。自分の知識を(ほこ)り、「仏さまなんているものか。仏法なんて必要ない」と平気で謗るようになりました。

 「闡提」は、一闡提(いっせんだい)です。一闡提とは、一切の善根を断ち切ることで、完全に無関心になってしまい、仏法を否定することもしなくなってしまった者です。こんな状態では救う手がかりもありません。

 現代の人々の多くが、仏法に無関心な一闡提になっているのではないでしょうか。これは、五逆、謗法よりも一番危険な状態です。

 救いとは、罪を罪と思い知らせることです。知らせることによって、それを罪と判断する仏法を受け入れさせることになります。「何が正しくて、何が正しくないか」を判断する基準を受け入れることによって、仏法にしたがって生きる人間によみがえっていくのです。

「南無阿弥陀仏」

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