「本物」と「偽物」
「偽物」というのは「本物」によく似ています。まったく違っていたら「別物」です。本物を知らないと、偽物を見分けることはできません。江戸時代、両替商に丁稚奉公として入りましたら、まず毎日、純金の小判を見せられたそうです。純金の小判の重さ・肌触り・光り具合を通して本物を知ってから、混ぜ物を入れた小判を見せられると、どのくらい混ぜ物が入っているか分かるのだそうです。
「偽」とは、「にんべんに為す」と書きます。「人間のすることは偽物だ」という意味があるそうです。私はいつも中心にいて、「あの人は良い人だ」と言った時、「何が良いのですか」と聞けば、「私にとって都合が良い」と答えます。それに対し「あの人は悪い人だ」と言った時、「何が悪いのですか」と聞けば、「私にとって都合が悪い」と答えるのです。私は周りの人の"いのち"を見ているのではなく、自分の都合を見ているのです。都合の良い状況には貪欲(むさぼり)の心を描き出し、都合の悪い状況には瞋恚(いかり・腹立ち)の心を起こします。
好きな人をいつまでも好き、嫌いな人をずっと嫌いならまだ良いのですが、これが自分の都合で一定せずに変化してしまいます。自分の好きな人に裏切られると、「可愛さ余って憎さ百倍」といわれるように憎しみが増長していくのです。その中心には愚痴(自己中心の考え方)があります。
この貪欲・瞋恚・愚痴の3つを「三毒の煩悩」といいます。
三毒がある限り人生から苦はなくなりません。親しい人と生き別れ、死に別れたら辛く苦しいのです。嫌いな人に会いたくはありませんが、縁があれば会わなければなりません。毎日毒を飲んでいるのと同じで、苦しみから逃れることはできないのです。
「煩悩具足の凡夫」とは、つまらない人間ということではありません。煩悩を知ったことが教えに出会っている姿です。これを「恥ずかしいことだ、浅ましいことだ」と気づくことによって、煩悩を少しずつ慎む人間に変えられていきます。関西には「まんまんちゃん(阿弥陀さま)が見てはる」という素晴らしい言葉があります。人が見ていなければ何をしても良いのでしょうか。そうではありません。人が見ていようが見ていまいが、してはいけないことはしてはいけないのです。
それでも"いのち"のある限りは煩悩を離れることはできません。「偽物」である私の人生は、「本物」の阿弥陀さまの教えによって導かれていきます。そして、この世での"いのち"を終える時、お浄土に生まれ、「本物」に変えられていくのです。
梯實圓和上の「念仏は偽物の人生を本物に変えて下さる」という言葉をありがたく思い出します。