“いのち”にであっていますか
最近、家族3世代で暮らすお宅は、本当に少なくなりました。私のところも以前は4世代で暮らしていましたが、今は坊守(浄土真宗でお寺の住職の配偶者のことをいいます)と豆柴犬の3人(?)暮らしです。現代は大家族で暮らすよりも、夫婦(と子ども)だけや1人で気兼ねなく住む方が楽なのでしょう。しかし気兼ねなく住むことにより、気が利かなくなってきているのかもしれません。
お坊さんにとって大事なことは愚痴を聞くことです。お参りに行った時には、どうぞ遠慮なく愚痴ってください。私はすぐに忘れますので、心配しないでください。愚痴は聞くだけで、答えなくていいのです。最後には「ありがとうございました」と何もしていないのに感謝されます。
しかし困る愚痴もあります。家族とケンカした後にお参りに行くと「ご院さん、年をとったらあきませんな。何の役にもたたないし、若いものに迷惑をかけるし。早く迎えに来ればいいのに…」と言われます。この時は返事に困ります。「そうですね」とも言えませんし、「そんなこといわずに」と言えば「年を取る本当の辛さも知らないくせに」と逆に怒られるかもしれません。
人間の特徴は道具を使うことです。ですから、全てを道具化して考えていく癖があります。だから若くて社会に役に立っているうちは素晴らしい意味を持っているのに、年老いて役に立たなくなったら存在の意味がないという考え方になるのでしょう。この考え方はどこかおかしくないでしょうか。
これを打ち破ってゆくのが「弥陀の本願には、老少のひとをえらばれず」(*)というお言葉です。阿弥陀さまの救いはどんな小さな子でも、どんな年老いた方でも同じようにかけられています。たとえ寝込んでしまっても「それでもあなたはかけがえのない仏の子だよ」と呼びつづけてくださいます。
“いのち”と道具とは違うのです。道具は壊れたら新しいものに買い替えたらいいのです。しかし一人ひとりの“いのち”はかけがえのないものなのです。
こんなことがあってはいけませんが、もし万が一「お前みたいなもの、何の役にもたたないし、早く死んでしまえ」と言われた時は、「お前にとっては私の“いのち”はつまらないと思うかもしれないが、それでも私には、かけがえのない仏の子なのだといって下さる仏さまがいてくださるのだ。ほっといてくれ」とはっきり言わせていただきましょう。本当の“いのち”を見ていない、そんな人の言葉にどうしてよいか迷うのではなく、阿弥陀さまのお言葉にしたがってこの人生を歩ませていただきましょう。
その時、若い“いのち”も年老いた“いのち”も、煌めくような“いのち”の領域を知らされるのです。どんな状態であっても救いの道は用意され、除外はありません。
この阿弥陀さまのお言葉がこの人生を非常に深いところから支えて下さいます。
「南無阿弥陀仏」