浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

自由

 自由を普通は「じゆう」と読みますが、仏教では「じゆ」と読みます。

 仏教では、自由という言葉は、非常に悪い言葉なのです。明治の頃から自由と言葉が全然違った意味に解釈されるようになりました。

 昔は自分によって生きている姿を自由といい、自分の考えを根拠にして独断と偏見をあらわすことで、勝手気ままをあらわす言葉でした。だから明治以前の書物の中に自由という言葉が出ていたら、独断と偏見・勝手気ままという意味で使っているのだと思って下さい。

 この頃の日本の現状を見ていると、自由が明治時代以前に使われている意味と同じようになってきているのではないでしょうか。やたらと権利欲を主張し、罪悪感は薄くなり、気まま勝手に生きている人が多いように思うのは私だけでしょうか。

 お寺のある中崎町は長屋など古い街並みが残っているところです。道も狭く、通り抜けを防ぐためややこしい一方通行が多いのです。そのために一方通行を逆走する車もあります。

 ある時、逆走して来た車の運転手に「ここは一方通行ですよ。」と教えたら、「わかっとるわい、ボケ!」と言われました。分かっているなら、逆走するなと腹が立ちました。しかし、そのようにしか言えない若者の心の貧しさも感じることができました。

 私たちはどうしても自分勝手になる傾向があります。それを正すものがなかったら非常に危ないのです。生き方をただす普遍的な真理によって生きなければなりません。

 その普遍的な真理を法と呼びます。その法とは、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依するという仏法僧の三宝に依る新しい生き方です。ことにその中心は法です。法というのは人がそれによって生きなければならない普遍の法則を法という言葉で顕わしております。

 それによって自分の独断偏見を常に批判されながら生きていくのです。だから仏教というのは仏様におまかせをするのであって自分にまかせてはならないのです。また世間の権力にまかせてそれに振り回されるような生き方もいけません。

 そういう正しい法に従って、法の秩序に従って生きいくのが仏教者の生き方であります。

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