浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

救いとは人間の価値観の変革

 阿弥陀さまの第18番目の願いの最後に「唯除五逆誹謗正法(ただ五逆と正法を誹謗するものを除く)」といわれています。五逆とは父を殺し、母を殺し、聖者を殺し、悪意をもって仏さまを傷つけ、和やかな教団を破壊することです。誹謗正法とは仏さまの正しい教えを謗ることです。

 それを親鸞聖人は『尊号真像銘文』に

五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。
このふたつの罪のおもきことをしめして、
十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と註釈されています。救うといっても金魚すくいではありません。大きな水槽からきれいな金魚鉢へと場所の転換ではなく、価値観を転換させるのです。それによって人間の心の中に革命を起こさすのです。人間の価値観を一度崩壊させて転換し、仏さまの新しい智慧の慈悲の秩序の中に生まれさせるのです。その中で自分の存在を再編成するのです。

 「除くぞ」といわれたことで、五逆と謗法のものがどれほど大きな罪であるかを知らせるのです。知らせることによって「大変なことをやっていた」と気づき、自分の罪を認めたことになるのです。自分の罪の重さをとは認めたことは、仏さまの教えを認めたことになるのです。自分の罪を全面的に承認した時、仏さまの秩序の中に入るのです。これが救われたことになるのです。

 逆に罪を認めないものは救われません。「盗人にも三分の理」と理屈にすがりついて自分を正当化しようとする人は、いつまでたっても怯えから解放されません。

 仏さまの教えを謗っている人は、格好が良いと思ってやっているのかもしれません。しかし結局自分の心の拠り所を失い、人々の心の拠り所を失わせていくことになるのです。心の拠り所がなくなるから、心の正しい秩序が崩壊してしまいます。心の正しい秩序が崩壊すれば、当然とんでもない暴走を繰り返します。その暴走が五逆罪という形で現れてくるというのです。

 煩悩具足であろうと愚かであろうと問題ではありません。仏さまの権威を認め、仏さまの秩序を認め、その中に自分の存在を位置づけていくのです。そして絶えず過ちを犯しつつある自己に気がつき、慚愧の心が絶えず起こってくるのです。これが仏さまの秩序の中にいるものの相で、それを救われたというのです。救われたというのは気楽になることではありません。そうではなく人間の価値観が変革されることを救いというのです。

 どうあっても許せないもの、また許してはならないものが五逆と正しい仏の教えを謗ることなのです。

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