浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

仏さまと会話

 お通夜にお参りしたときに「この人はどこへ行ったのでしょう」といわれます。そうしたら「お浄土にやってもらいました」と言えればいいですね。死に分かれたから寂しく泣きます。同じ泣いても泣きようが違うという泣き方があるのです。

 阿弥陀さまが「私の国、お浄土に生まれると思え」という、願いの言葉に開かれた智慧の領域に私たちが入るのです。信心というのは仏さまのいわれることをいわれるままに受け入れることをいうのです。これは私が考えて受け入れるのではなく、そのまま受け入れると、仏さまの言葉が開く領域の中に私自身が位置づけられるのです。

 『法華経(ほけきょう)』に

開示悟入仏知見(仏知見に開示悟入する)

という言葉があります。お経とは「仏さまはこのように見ているよ」と、仏さまの考えていることを私たちに開き示したものなのです。その言葉を素直に受けると仏さまの世界に悟り入るのです。仏さまが「このような世界があるよ」と言って扉を開けて下さった中に入っていくと、今まで人間の考えた世界を生きていた私が、なんと仏さまの見そなわす世界を生きるようになるのです。

 教えを説くことによって「仏さまはこう考えて、こう見ているのだ」ということを知らせてもらうのです。すると私は人間の考える世界に今は生きていますが、仏さまの見られている世界に生きる人間になるのです。これが「悟入」ということで、悟りというのは「そうでしたか」と頷くことなのです。これが宗教の世界なのです。

 仏さまの言葉を信じ、仏さまの言葉を受け入れば、仏さまと話ができるような心を持つことになるのです。だから時には嫌なことがあったり、辛いことがあったり、腹立つことがあったら、すべて仏さまにぶちまけたらよいのです。人の前ではよい格好をしなければ仕方がありません。しかし仏さまの前でよい格好をする必要はないのです。

 「愚痴をこぼすな」といいます。しかし「愚痴はこぼれる」ものなのです。こぼれるものはこぼしたらいいのです。愚痴を聞いて共感してくれる人がいてくれることで、愚痴が半減するのです。

 人に言ったら具合が悪い時があります。ちょうど小さい子どもが親に何でも言うように仏さまに何でも言ったらよいのです。言ったらスーッと心を浄化して下さるのが、仏さまのはたらきなのです。

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