浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

仏さまのお話しの聞き方

 お寺で仏さまのお話しを聞くことは、学校の授業などの聞き方とちがいます。それは聞いておぼえて忘れないようにするのではありません。忘れることを気にしない聞き方をするのです。

 蓮如上人に次のような話があります。

 ある人が「私はもう頭が悪うございまして、お説教を聞いているときはありがたいのですけれども、聞くはしからみんな忘れてしまいます。まるで籠(かご)で水をすくうようなものです」といったのです。籠で水をすくったら、すき間からザーッと全部水が漏れまして、気がついたら何も残っていないというのです。「私の頭というのは籠で水をすくうようなもので、聞いても聞いても漏れ落ちてしまって忘れてしまいます。どうしたらよろしいでしょうか?」と蓮如上人に尋ねた人がいるのです。

 そしたら蓮如上人が「その籠を水につけておけ」といわれたのです。籠を水から上げるから漏れてしまうのです。逆に籠を水につけたら、籠に水がいっぱいに溜まるのです。だから「その籠を水につけておけ」といわれております。

 これはどういうことなのでしょうか。それは仏さまのお話しを聞くときには、忘れることを苦にせずに聞くことを楽しみにしろということです。だから忘れることを苦にしないのです。忘れたらまた聞いたらよいのです。しかし学校の試験は違います。試験したときに忘れてしまったら、何も書けません。その結果が0点ならば、残念ながら落第してしまいます。

 ところが仏さまのお話しは違うのです。忘れることを心配しなくてもよいのです。忘れることを気にしなくてよいのです。ようするに聞くことを楽しめばよいということです。いつ聞いても「大丈夫、大丈夫」と聞くのです。忘れたことが苦になるような聞き方をしてはいけません。忘れたことが苦にするような聞き方は、本当の聞き方ではありません。忘れたことが苦にならないような聞き方をしろということなのです。それを蓮如上人は「その籠を水につけておけ」といわれております。

 お経には仏さまのみ教えが説かれています。仏さまのみ教えとは「かならずお前を救うから、私の名『南無阿弥陀仏』をとなえてこの人生を生きておくれ」と、私にかけられた願いを聞くのです。つまり『南無阿弥陀仏』の名の中に、私を救う徳が全部こもってしまっている道理が説かれています。

 その道理を別に知ってもかまわないけれども、知ったことを手柄にするような知り方をしないということです。知ることは良いことであるけれども、知ったことを手柄にするような知り方はダメだということです。

 私たちは歳を重ねるごとに、その知ったりわかったものが漏れてなくなってしまいます。その漏れてなくなってしまったときに、信心がなくなってしまう仏さまのお話しの聞き方であれば、はじめから聞いていないということなのです。

 それではどうしたらよいのですかというと、その知識が漏れてしまっても、その漏れる人間を漏らさず救う願いだと聞けば、それが仏さまのみ教えだといただけば、それだけでよいのです。 合掌

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