先の見えない闇を明るく照らす
今年はあっという間に、コロナ禍のなか、11月になりました。私のまわりでも、3月に入り、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、自坊をはじめ多くの寺院の法座の中止が相次ぎました。4月7日から5月21日までの緊急事態宣言発出中は月参りをお休みし、それ以降も法事の延期が多くなりました。また、手洗い・うがいの習慣化、マスクの着用、空気の入れ替え、密を避けるなど、当たり前だと思っていた今までの暮らしが一変しました。
親鸞聖人88歳のお手紙が残っています。
なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。(『親鸞聖人御消息』)
「去年・今年…死にあひて候ふらんこと」とは、1259年から1260年にかけて、「正嘉・正元の飢饉」とも呼ばれる大飢饉が発生し、餓死者が川や道にあふれ、さらに疫病が流行し、多くの者が亡くなったことをいわれています。そして「まことに哀れなことでありました。」と書き始まります。
その次の「生死無常のことわり」とは、私たちがいつ、どこで、どんな状態で人生の終わりを迎えるかわからないということであり、お釈迦さまが詳しくお説きになっている「死ぬことは驚くことではない」ということです。では「何が驚くことか」というと、「死すべき者が生きていることが不思議なのです。生きていることの不思議を忘れている、そこにものの考え方の顛倒があるのだ」と座り直しているのです。「その不思議の自分の"いのち"に対する責任を果たしているのか」と迫ってくるものが親鸞聖人のお手紙の中には込められているのです。 私たちは毎日、善悪さまざまな「おこない」をしながら生きているわけですが、凡夫であることの悲しみは、いつも自己中心的な妄念に支配されていて、利害・損得の打算がつきまとい、愛と憎しみの煩悩が常にともなっています。私たちの迷いの世界は危険がいっぱいなのです。そんな中、煩悩の虜になれば、どこに連れていかれるかわかりません。その真っただ中へ「南無阿弥陀仏」という名号となって阿弥陀さまはあらわれてくださいます。私たちを呼び覚まし、煩悩の現実の浅ましさと危なさとを知らせてくださいます。そして阿弥陀さまの心に呼び戻し、慰めと安らぎを与えつつ、浄土に導いてくださるのです。
「南無阿弥陀仏」は単なる名前ではなく、阿弥陀さまの私への「呼び声」です。阿弥陀さまは私を救うために全身全霊を絞り出して「呼び声」となって私にはたらきます。「南無阿弥陀仏」が呼び声であることは、その声の中に如来の心そのものがあるのです。その声を聞けば今現にここで如来の心に触れていることを意味しています。
太陽の光は"いのち"を育て、闇を破って明るく照らし、あらゆるものを温かく包む働きがあります。阿弥陀さまの光には、かたくなな私をいつの間にか手を合わせる身に育て、煩悩に振り回されて先の見えない闇を明るく照らし、くじけて立ち止まった背中を温かく包み勇気づけてくれるのです。