浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

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仏さまの教えを認める

 最近の新聞には、今まで考えられなかった事件が、次から次へと載っています。とくに驚いたのは悪質なひき逃げ事件です。自分のつごうで平気で"いのち"さえ奪ってしまう現状に、何とも言えない恐ろしさを感じます。

 その原因について、いろいろな人が意見を述べています。「親が悪い」とか、「学校の教育がいけない」とか、「社会がいけない」とか。

 私たちは文明が発展すればするほど幸福になると思っています。しかし仏教では科学文明が進んでも、人間の心の世界は逆におとろえていくというのです。今では科学知識が発展によって、生活が幸福をさそうように便利であり快適になってきました。しかし"こころ"の世界を見ると、権利意識が強くなり、罪悪意識が乏しく、自分の欲望ばかりひろげていくようになっています。そのことを知らせてくれるのが仏様の教えなのでしょう。

 親鸞聖人は、阿弥陀さまの救いを「正信偈(しょうしんげ)」に「拯済(じょうさい)」と書かれています。「拯」というのは水に溺れて苦しんでいる人を、両手を差し出してすくい上げることをいいます。「済」とは等しいということです。救うものが安全でなかったら、共に溺れてしまうこともあります。救うものと救われるものが等しいということは、救うものが安全なところにいて、救われるものを自分と同じ安全な場所においてあげることをいいます。つまり、苦しみ悩むものを救って、仏様と同じ安全で安らかなお浄土に迎え入れようとするのです。

 私たちの人生は、何が起こるかわかりません。この世の中はどんなことが起こっても不思議ではないのです。仏教というのは不時災難が来ないように祈る宗教ではありません。どんな不時災難にも耐え、それを乗りこえていく正しい智慧の眼を開かせるのです。救いというのは、価値観が転換することなのです。私のものの見方、考え方、受け取り方というのが一変していくような新しい智慧の領域というものを知らせていくのが、阿弥陀さまの救いなのです。

 救いを与えるとは、罪悪の重さを知らせることです。自分の罪悪を認めたということは仏法を認めたことになるのです。「盗人にも三分の理」といわれます。どんな悪いことをしても理屈をつけようと思えばつけられるのです。理屈をつけて罪や悪を認めないから罪悪がいよいよエスカレートするのです。

 阿弥陀様の悪人の救済というのは、私自身にしっかりとした悪の自覚を持たせることです。人間はさまざまに人を傷つけ、自分を傷つけながら生きています。今まで殺人や強盗を行わなかったのは、私が立派だったからではありません。ただ悪縁にあわなかっただけなのです。縁さえあれば何をするかわからない恐ろしいものを持っているのです。その悪の自覚をはっきりと持たせる事によって、法に従った生き方というものが生まれて来るのです。「何が正しくて、何が正しくないか」と判定する基準を受け入れ、法に従って生きる人間に甦っていくのです。

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