浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

現代の妙好人

 先日、北九州のお寺の彼岸会にご縁をいただきました。20年前、このお寺でMさんに初めてお会いしました。Mさんは大学2年生の時、交通事故に遭い、第4・5頚髄を損傷し、四肢体幹麻痺の後遺症を負いながら、お念仏を喜ばれた方でした。

 頚髄の損傷は、一生どんなことがあっても全身の自由は戻ってこないし、麻痺した体は排尿、排便から食事、入浴まで人の手を借りなければ生きていけないという絶望的な状況におちいりました。この先どうなるのだろうという不安でいっぱいだったそうです。

 「私の命が十数年しかもたないとしても、また手足が永久に動かないとしても、そのことは別に問題ではない。今なぜ生きなければならないのか、もし死んだらどうなるだろうか、という心の問いをどうしても解決してやろう」と決心を固められたそうです。

 ある日、お寺の前住職が「これを読んでみませんか?」と本願寺出版社から出版された『仏教をどう理解するか』(上田義文著)という本を置いていかれました。それを読んでMさんは電撃を受けたようなショックを感じたといわれています。

 その本には「仏陀」とは「知る人」ということを意味し、私の"いのち"はいつどこでどんな姿をしていてもかけがえのない仏の子であること、"いのち"終えたときに浄土に往くのだということがはっきり書かれていました。しかも占いや祈祷などはしないことも書かれていたのです。また、私たちは智恵が浅く、そして無知であり、欲望のために毎日犯している罪を少しも知ることができない、そして真実が見えないままに毎日、何か欲しいとか惜しいとか、憎たらしいとかいうような感情で、十年も百年も変わらない生活をしていると書かれていました。

 Mさんは「私が真実を知り、真実に目覚めることによって、今の苦しみから解放されることが唯一の解決方法ではなかろうか。それはとりもなおさず私が仏陀に成らせていただくという道に他ならないのではないだろうか」と納得し、急に明るい光が見えたような気がしたと言われています。

 自分の失敗により重傷を負い、不自由な体になったのに、お母さんに愚痴をこぼし、不満をぶつけてきた卑怯な自分が何となく恥ずかしくなってきたそうです。そしてお話を聞くにしたがって、自分自身の考えにとりつかれて、知らないうちに罪を犯していくのが自分の本当の姿だと教えられ、さまざまな悪口をあびせてうっぷんを晴らしている自分の姿が見えてきて、お母さんへの態度も少しずつ変わっていくのが分かったそうです。

 このようにしてMさんはお念仏のみ教えに遇い、自分の生きている意味と方向を知らされることにより、辛い自分の立場を翻して見事に立ち直っていかれたのです。

 今の住職は「今でもお参りが多いのはMさんのおかげです。住職がお参りしなさいと言っても来ないのに…」と言われます。お念仏を喜ばれている方のお誘いが一番効果のあることを教えられました。

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