浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

仏さまの仲間に入る

 人間は正しいことを言ったら、喜んでくれると思うのは大きな間違いです。反対に嫌がられるのです。たとえば肝臓の悪い方に「酒を飲んではいけませんよ」と注意したら「人のことは放っておいてくれ」と怒られます。正しいことは正しくないことをしている人には耳が痛いのです。

 仏さまは真実に背いて苦に埋没していく私を放っておけないのです。その私に"仏の子"として目覚めてくれるように願いつづけてくださるのです。仏さまの願いが具体的に用いてくださることを、親鸞聖人は「本願力回向(ほんがんりきえこう)」と言われました。仏さまの願いの心が私に染み込んで、仏さまの救いを素直に受け入れる身に変えてくださるのです。

 だいたい動物は「人間は怖いものだ、恐ろしいものだ」と"敵"として見ています。だからチンパンジーに餌づけをし、人間には悪意・害意のないことを知らせるには長い時間がかかります。悪意のないことを知らせる努力が実を結んだ時に、チンパンジーが人間を信頼するようになるのです。恐れずに人間に近づき、人間を信頼するようになるのは、餌づけをした人の心が届いたからなのです。餌づけをした人の心が、チンパンジーの中に染み込んでいくのです。つまり恐れなくなった心は、餌づけをした人の育てた心で、本来のチンパンジーが持っている心ではありません。大切に育てればよくなつき、育てれば人間の仲間に入ってくるのです。

 仏さまの教えを聞くというのは、私からおきた心ではありません。逆に私は仏法を聞くことは嫌だったのです。「煩悩具足の凡夫」とは思いたくないのです。「他の人よりは少しはましだ」と思いたいのです。「死」の話は聞きたくないのです。だから仏さまの教えに背を向けて逃げていたのです。「仏法を聞こう」という心は私がおこすものではないのです。仏さまの用きによって発さしめられたものなのです。

 「死ぬことはかわいそうになっていくのではないのだ。仏さまの国、お浄土に生まれていくことなのだ」ということは大変なことなのです。正しく仏さまの心によって開かれていく領域なのです。"いのち"終えていくこともありがたい世界があるのです。

 お浄土に生まれて仏となる身が、今生きていることがどういう意味があるのかを、逆に問われ続けるのです。「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして」と"仏の子"としては恥ずかしい生き方をしています。しかし私たちは煩悩に引きずられて生きていくのではないのです。仏さまの教えによって導かれて生きていくという人生が開かれてくるのです。

 阿弥陀さまがお浄土で説法している大衆と同じように、迷いの世界に住みながら、阿弥陀さまのお話を聞く身にならしていただいているのです。仏さまのお話を聞くことにより、私たちは仏さまに育てられて、仏さまの心が分るようになり、仏さまの仲間に入れてもらうのです。

 「永代経」とは今私に説かれている仏さまの教えを聞くことなのです。