浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

「南無阿弥陀仏」のはたらき

 浄土の救いとは、阿弥陀さまの慈悲の心から起こってきたのです。「慈」と「悲」とは、元々別々の言葉でした。

 「慈」とは、インドの言葉で「マイトリー」と言います。「マイトリー」とは「純粋な友愛」と言うことで、「純粋」とはお返しを求めないことです。私たちは人に何かをしてあげると「あのときに、あれだけのことをしてあげたのに」と、すぐにお返しの心が起こってきます。しかし仏さまはお返しなしに、相手の幸せをどこまでも願うのです。

 「悲」というのはインドの言葉で「カルナ」と言い、その語源は「うめき声」から出たのだそうです。うめくほどの痛みを経験した方は、人のうめき声を聞いただけで「痛いのだな」と相手の痛みに共感します。つまり相手の痛み苦しみが仏さまの痛み苦しみになるから、少しでも早くその痛み苦しみから解放して、本当に幸せになって欲しいと願う心を慈悲というのです。

 つまり仏さまは、すばらしい功績があるから救うのではないのです。むしろ仏さまに反逆して、自ら痛み苦しんでいる姿を放っておくことができないのです。私たちが仏さまにあう条件は、痛み苦しみがあることなのです。その痛み苦しみを抜き取って、真実の幸せを与えようと言うのが仏さまの慈悲の心なのです。

 親鸞聖人はお念仏の味わいを「阿弥陀さまが私を招き喚び覚まし続けている勅命である」といわれます。「招」は「まねく」ということで、私は如来さまから「わが国に生まれ来たれ」と招かれている存在なのです。そして親鸞聖人は「喚」を「ヨバウ」と読んでいます。「ヨバウ」の「ウ」は動作の継続を表す助動詞なのです。つまり「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまが私を喚び続け、招き続けている姿なのです。だからお念仏を称えていることは阿弥陀さまの仕事なのです。この私はなかなか如来さまのいわれを聞こうとしません。その私にどうしても聞かせてやろうというのです。どうしたら一番よく聞くかというと、自分で称えて自分で聞けば一番よいのです。それでお念仏をさせ、本願の勅命を聞かせていこうとされたわけなのです。つまりお念仏していることが、阿弥陀様の「摂め取って捨てない」という救いの中にあるのです。「南無阿弥陀仏」とは「必ず救うぞ」という、親の呼び声を聞いていることになるのです。

 「南無阿弥陀仏」というお念仏は、仏さまの智慧そのものなのです。そのお念仏の智慧が、私のところに至り届いて、私のご信心となって下さっているのです。私は疑い深いもので理解できないものに、人生を委ねることはできません。「お浄土へ生まれると思え」といわれても、思われないのです。しかし阿弥陀さまの智慧が、私の疑い心を破って、私に智慧を与えてくれるのです。信心のことを信楽(しんぎょう)と言います。「楽」というのは「楽しい」と読みます。「仏法を聞くことが楽しい」という心は、私から出てくるものではありません。むしろ私は、仏法を聞くのは嫌なのです。その私が仏法を聞くことが楽しいというのは、まさに仏智を頂いたということなのです。また私は死ぬことを考えたくはありません。それを「死ぬのではなく、お浄土に生まれることなのです」とお浄土を願う心は、凡夫の心ではありません。仏さまの智慧が、仏法を聞くことを楽しみに、浄土を願う人間に育て上げて下さったのです。

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