浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

願われる

 ある年の新聞に「母の日に思う」と題して投稿した短い文章がありました。それは母一人子一人で生活して、高校までに育て上げたお母さんが、お子さんから母の日にプレゼントを貰ったという、それだけの話なのです。

 そのプレゼントには紅白のリボンがついていました。その小箱を開けてみると、また中に小さな箱が5つ入っていたそうです。そしてその小箱の1つ1つにまた紅白のリボンがかけられていました。それにまたご丁寧に一言づつ言葉がつけられていたというのです。はじめは「娘のやることだなぁ」と思ったそうです。

 そこで5つのうち最初の箱を開けてみました。中にお菓子の「ウエハース」が2枚入っていました。その箱には「若くね」という言葉がついていたそうです。

 つぎの箱には「マシュマロ」という柔らかいお菓子が1つ入っていました。そしてその箱には「柔らかくね」と書いてあったそうです。「なるほど年をとると心身共に固くなるからな」と思ったそうです。

 そのつぎの箱には「あられ」が2粒入っていて、そこには「チッピリ辛く」と書いてあったそうです。

 4番目の箱は「厚焼きせんべい」が1枚入っていて「バリバリ」と書いてありました。

 そこまでくるとお母さんは「涙が出てきて、とどめなく流れてくるのをどうしょうもありませんでした」と書いておられました。

 そして最後の箱を開けると、紅白の角砂糖が出てきまして「甘くね」とだけ書いてありました。

 この贈り物をもらったときの実感を、お母さんはつぎのように書いておられました。「私はこの子を女手一つで育ててきて、この子どもに願いをかけ続けていた自分を充分知っていました。しかしこの子からこれほど願いをかけられていることには、一度も気付きませんでした」と。

 願いをかけ続けながら子育てしてきたのではありません。むしろ子どもに願いをかけられながら、やっとの思いで親をさせて頂いているのであることに気がついたのです。

 仏法を聞くとは、私が阿弥陀様から願いをかけられている存在であることを知ることなのです。その願いの中で自分の存在を確認するのです。

 私はこの世に生まれることを願ったわけではありません。気がついたら生まれていたといったほうがいいのでしょう。だから迷って当然なのです。順調な時は「生まれてきてよかった」と思います。しかし逆になったら「生まれてこなければよかった」といいます。しかしそれは私の都合であって"いのち"を見ているのではないのです。

 道に迷ったときは、地図を見ます。その地図には目的地が書いてあることも大切ですが、もっと大事なことは現在地が書いてあることなのです。現在地がないと自分のいる場所が分からなくなるのです。現在地と目的地が書いてあれば迷わずに行くことができます。

 私の"いのち"は阿弥陀さまから見れば、かけがえのない仏の子の"いのち"なんだよといわれるのです。仏の子としては、自分中心の考えから離れることができない恥ずかしい存在です。しかし恥ずかしいと言えるのは如来さまに遇っている証拠なのです。

 その如来さまの願いの中で、"仏の子"として目覚めをうけながら、お浄土をめざしてこの人生を生きるという新しい生き方が与えられるのです。

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