浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

お経とはなに?

 お経とは何でしょうか。それについて善導大師の二河白道の譬えの中に、次のように言われています。

 1人の旅人が西に向かって果てしない旅を続けていました。その旅人がざわめきを感じて振り返ると群賊・悪獣が襲ってくるのが見えたのです。旅人はあわてて西に向かって逃げようとした時に、目の前にこつ然と火の河と水の河があらわれました。北の方には激しく波が逆巻く水の河が果てしなく続いているのです。南の方には火山の火口のように火を吹き上げる火の河が果てしもなく続いています。その中間に幅15・6cmの白道が見えるのです。長さ100歩ぐらいで向こう岸に続いているのですが、常に水波と火炎に覆われて、向こう岸までとても渡れそうにありません。

 旅人は「帰ったら群賊・悪獣に襲われて死ぬだろう。止まってもむなしく死を待つだけだ。ここに道がある。どうせ死ぬのなら前向きに死を選ぼう」と思ったのです。その時に東の岸からお釈迦さまが「この道をいけ」と勧める声が聞こえたのです。これをお釈迦さまの発遣(はっけん)といいます。そして西の岸から阿弥陀さまが「この道を来たれ」と喚ぶ声を聞いたのです。これを阿弥陀さまの招喚(しょうかん)と呼んでいます。

 そのお釈迦さまの勧め遣わすことについて、善導大師は次のように解釈しています。「釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず」と、お釈迦さまはすでに2,500年前にお亡くなりになって私達は遇うことはできません。けれども「なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ」お釈迦さまが遺された教えが私たちに喚びかけているのです。それを「声のごとし」と喩えたのだというのです。だからお経を拝読するということは、お釈迦さまの勧め遣わす声を聞くということなのです。

 『阿弥陀経』に

舎利弗、於汝意云何、彼仏何故、号阿弥陀(舎利弗よ、おまえはどう思うか、なぜあの仏さまを阿弥陀と名づけたてまつるか、お前はその意味が分かるか)

とお釈迦さまが舎利弗に聞かれたのです。舎利弗は黙っていますと、お釈迦さまが「かの仏の光明は無量であって、そして十方の国を照らして、障りなくすべてのものを救いたもう、だから阿弥陀と名づけたてまつるんだ」といわれました。それを善導大師が『法事讃』というお書物に「舎利弗(シャーリプトラ)」を「身子」と翻訳します。

 そして「仏、身子に告げたまふは、末代苦の衆生に告げたもうなり」と書いてあるのです。実は「舎利弗よ」と呼びかけているのは、舎利弗を通して末法の時代の衆生、つまりお釈迦さまが亡くなって1,000年・2,000年経った末法の時代に生きる人達に、お釈迦さまが呼びかけている言葉なのです。だから舎利弗というのは、末代苦の衆生の代表者としてお釈迦様の説法を聞いているのです。つまりお経を拝読する時には、お経を拝読する指定席があるのです。そこで聞かなければいけないのです。そのお経を拝読する時の指定席が、『阿弥陀経』ではあの「舎利弗」という言葉なのです。だから「舎利弗」のところに自分の名前を書き入れといたらよいのです。これが善導大師のお領解なのです。

 だからお経を読むということはお経を聞くことなのです。どこで聞くのだといったらお経の中でお経を聞かなければいけないのです。そうするとお釈迦さまの説法は、今私に向かって行われているということになります。だからお釈迦さまというのは2,500年前の人だというのは歴史家がいうことであって、仏教者がいうことではないのです。仏教者がいう時には、お釈迦様は今私に語りかけている人という風に見ていくべきなのです。それで初めてお釈迦さまが生き生きと私たちの前に出現するのです。  合掌

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