仏さまの教えを聞く
「仏さまのお言葉にはウソはない」とうたがいなく信ずることは、よほど仏さまに育てられないとできません。
コイは人間の影を見たら逃げます。しかし手をたたいたら寄ってくるコイもいます。手をたたいたらエサをもらえるというのでコイがやってくるのです。本当は人間というものはコイをとって食べる怖いものなのですが、その怖さを知らないのです。しかしそれは人間に馴らされたのです。
動物は「人間は怖いものだ、恐ろしいものだ」と敵として見ています。チンパンジーに餌づけをして、悪意・害意のないことを知らせるには長い時間がかかります。悪意のないことを知らせる努力が実を結んだ時に、動物が人間を信頼するようになります。人間に近づき信頼するようになるのは、餌づけをした人の心が届いたからなのです。怖れなくなった心は人間の育てた心であって、本来のチンパンジーが持っている心ではありません。育てればよくなつき、育てれば人間の仲間に入ってくるのです。
私たちが疑いなく仏さまの言葉を受け入れるようになったのは、実は仏さまのほうからいろいろな形ではたらきかけてくださったのです。そして仏さまに対する信頼感を、私の心の中に植えつけてくださったのです。それを親鸞聖人は「疑いなく教えを受け入れるということも、仏さまからたまわった心なのだ。仏さまから頂戴した心なのだ」といわれるのです。それを「他力回向の信心」といわれ、仏さまから与えられた信心といわれるのです。
これは「餌づけ」といったらおかしいですが、仏さまの教えを聞いているうちに、少しずつ「仏さまの言葉に嘘はない、嘘は人間の方にあることだ」というのがだんだんと分ってくるのです。「人間の言葉はそうとう警戒して聞かなければならないが、仏さまの教えは警戒する必要はありません。まったく無条件で受け入れたらよいのです」という心が、私の心に起こってくるまで、仏さまは私を育てて下さったのだということなのです。
これはなかなか大変なことなのです。親鸞聖人は「三恒河沙」(ガンジス河の砂の数を3倍した程)の仏さまたちによって育てられて、はじめて素直に教えを聞くことのできる身になったのだといわれております。とほうもない譬えであらわされますが、それだけ「仏さまの教えを聞けるようになった」という不思議を感じらておられたのでしょう。私たちの想像もつかないような世界を、仏さまは私たちに教えて下さるのです。
その想像を絶した世界を、疑いなく受け入れることができるというのは大変なことなのです。