浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

阿弥陀さまの責任

 生まれてくる時に何も知らずに生まれてきたのだから、生まれてきたことに責任を持てません。死ぬ時も知らずに死んでいくのだから、死ぬことに責任を持てません。

 だから生まれ方によって人をとやかくいうのは残酷なことです。自分が決定したことではないことに責任とらされることはありません。どこの家でどんな形で生まれとも、体に欠陥があって生まれてきても、その人の責任ではありません。したがって先に生まれている者はそれを無条件に受け入れてやらないといけないのです。どんな生まれ方をしようと無条件に受け入れて、その子が一番よい条件で生きていけるような方策を考えていくのです。これが先に生まれている者の責任だと思います。広く言えば社会の責任であり、狭く言えば家庭の親となった者の責任です。子どもは親を選ぶことはできません。生まれてきた子どもの責任を親が背負い、社会が背負っていくべきだと思います。

 しかし人間が背負っていける責任はたかが知れているのでしょう。「こうしてやりたい、ああしてやりたい」と思っても、力がなければどうすることもできません。『歎異抄(たんにしょう)』に

存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし

といわれています。いくら「責任を持つ」と言っても限界があるのです。

 その中で私たちの生と死の全体を「私が責任を持とう」と名のり出られたのが阿弥陀さまなのです。阿弥陀さまがどんな責任を果たすのかといいますと「私たちを仏の子として育み導き育てていく」といわれるのです。

 どんな生まれ方であろうと、どんな生き方であろうと、どんな死に方であろうと仏の子として如来さまは私たちの存在を認めて下さるのです。そして仏の子としてふさわしい生き方をするように導いて下さるのです。

 その仏さまの導きの言葉が経典なのです。「このように生きなさい。このようにものを考えなさい」と教育をして下さるのです。これは責任者だからこそ言える言葉なので、仏さまの教えは無責任な教えをしているのではありません。

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