浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

浄土真宗の信心とは

 「南無阿弥陀仏」というお念仏は、仏様の智慧そのものなのです。そのお念仏の智慧が、私のところに至り届いて、私のご信心となって下さっているのです。つまりご信心とは仏智を賜っているのです。これは非常に大切な意味をもつのです。私は疑い深いものです。だから私の理解できないものに、人生を委ねることはできません。「お浄土へ生まれると思え」といわれても、思われないのです。しかし阿弥陀さまの智慧が、私の疑い心を破って、私に智慧を与えてくれるのです。

 信心のことを信楽(しんぎょう)と言います。「楽」というのは「楽しい」と読みます。「仏法を聞くことが楽しい」という心は、私から出てくるものではありません。むしろ私は、仏法を聞くのは嫌なのです。その私が仏法を聞くことが楽しいというのは、まさに仏智を頂いたということなのです。また私は死ぬことを考えたくはありません。それを「死ぬのではなく、お浄土に生まれることなのです」とお浄土を願う心は、凡夫の心ではありません。仏さまの智慧が、仏法を聞くことを楽しみに、浄土を願う人間に育て上げて下さったのです。

 私がご本願の言葉を受け入れたときに、実は主体が転換するのです。私が主体として生きてきましたが、阿弥陀さまが主体になります。私は阿弥陀さまの支配下に置かれるのです。根元的には煩悩の支配を受けていますが、本質的には阿弥陀さまの支配下に置かれるのです。つまり阿弥陀さまの智慧と慈悲というものが、私の考え方や行動の一番根元的なところでリーダーシップを取っていくのです。煩悩を燃やしていることは、浅ましい姿です。そこに阿弥陀さまの智慧によってリードされ、育まれ導かれている人生が開かれるのです。煩悩は生きている限り燃えさかっています。しかし、煩悩で苦しみ悩むことが、法を聞き法に目覚めていく契機になるのです。

 『維摩経』の中に「煩悩はこれ道場なり」という言葉があります。煩悩が素晴らしいことを教えてくれる糸口になるのです。仏法に気づく機縁になったら、愚かなことが仏法を味わう道場に転じるのです。私がこの世に生まれてきたことは楽をするためではないのです。仏道を極めるために生まれてきたのです。

 人生を通して、「南無阿弥陀仏」が私を救う真実の教えであったことを確認していくのです。そして命終えることは、お浄土に生まれることなのです。今日の一日一日がお浄土の道中なのです。その日暮の中で、また煩悩を通して、阿弥陀さまの智慧に触れて歩んでいく、これが念仏者の歩む道なのです。