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『正信偈』に
円満徳号勧専称(円満の徳号、専称を勧む)
と書かれています。
「円満の徳号」とは、お念仏には、あらゆる仏さまの功徳がとけて、「南無阿弥陀仏」の一句に円かに備わっているということです。お念仏の一句に、仏さまの功徳の一切が摂まっています。これを仏教では「円融」といいます。言い換えると、「南無阿弥陀仏」が仏さまなのです。阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という言葉となって、私たちの上に届いています。私にはその徳はわかりません。わかる必要はないのです。
「南無阿弥陀仏」を称えることは、仏徳を讃嘆することだといいます。「称」には「称讃」のように、ほめ称えるという意味があります。しかし、「ほめる」ということは大変に難しいのです。ほめ過ぎたら口先だけのお世辞になりますし、ほめ足らないと、馬鹿にしていると思われることもあります。「お若く見えます」と言えば喜ぶと聞いて、赤ちゃんに言ってもほめまちがいになります。
第一に阿弥陀さまをほめるためには、阿弥陀さまの徳が分かっていなくてはいけません。そして、阿弥陀さまの徳に相応しいほめ方をしなければなりません。第二に私たちには徳にふさわしいほめ方はできません。仏さまの徳を知るものは仏さまだけで、仏さま以外に知ることはできません。阿弥陀さまの徳をほめ称えることができるのは、阿弥陀さまと同格の仏さまでないとできないのです。私たちは仏さまをほめる言葉さえ持たないのです。
ただ一つだけ、私たちに阿弥陀さまの徳をほめる言葉を与えられています。その言葉が「南無阿弥陀仏」という言葉です。この言葉を言えば過不足なしに、そして実に正確な言葉で阿弥陀さまをほめたことになるのです。だから、ほめる言葉も阿弥陀さまからいただいているのです。
しかし、おのれを虚しくして、その徳を限りなく讃仰すると、相手の徳に融け込んで、その徳がこちらへ宿って来るのです。仏教では本当にほめることにすごい徳があるのです。「南無阿弥陀仏」のみ名を称えて仏さまの徳を讃嘆すると、その讃嘆されている徳が私に宿るのです。宿ったその徳が私の心を明るく開いていくのです。
生死にどのような意味があるのか、私たちは自分の存在というものの意味が分かりません。それに尊い意味を与えるのが「南無阿弥陀仏」なのです。「南無阿弥陀仏」と称えて「お前を救う親さまがいるよ、われをたのみ、われにまかせよ」とその全体が私を救うための仏さまであったとことを知らされるのです。つまり、阿弥陀さまは私を救うということに存在意味を持っているのです。私は阿弥陀さまに救済されることに私の存在意味は確立するのです。
昔の人は「南無阿弥陀仏には熨斗が付いているぞ」といわれました。お金を出したのは私ですが、熨斗紙をつけてもらった途端に他人のものになりますす。「南無阿弥陀仏」は私に与えるものとして成就されているのです。
「南無阿弥陀仏」を称えるという時に、その名号を私とかけ離れたものだと思うなというのです。そして「阿弥陀さまは私を救うための仏さまである」と名を称え聞きながら、阿弥陀さまに導かれ、目覚めをうけながら、一緒にお浄土の道中を歩んでいくのです。真実の親さまと一緒ならば迷うことはありません。