浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

インド仏跡の旅(6)

王舍城牢獄跡

 早朝の霊鷲山を参拝した後、王舍城の牢獄跡へ行きました。ここは『観無量寿経』に説かれている阿闍世が父王を幽閉した牢獄跡です。かなり広い敷地の周囲には、高いところは背丈ほどもある石積みで囲まれています。父王の頻婆沙羅は、ここからお釈迦様のいらっしゃる霊鷲山に向かって合掌礼拝されたといわれています。

 お釈迦様の時代に、頻婆沙羅が国王であるマガダ国は専制君主国家として最強を誇っていました。お釈迦様のいとこである提婆達多は何とかお釈迦様の仏教教団を乗っ取って、自分がリーダーになろうともくろんだのです。その時に、お釈迦様を非常に崇め、帰依していた頻婆沙羅王が、お釈迦様についているのが気にいりません。それで息子の阿闍世を自分の味方にして、クーデターを起こさせたのです。阿闍世は提婆達多にそそのかされて、一晩の間に父親を牢獄に閉じこめ、自分の軍隊で国を占領しました。

 阿闍世というのは皇太子で、素晴らしい生き方をする方なのです。提婆達多は仏弟子でしょう。仏様の戒めを守って清らかな生活をする人なのです。外見から見たら素晴らしい生き方をする人が、一皮むいたらドロドロした恐ろしいものを内にもっているのです。そのドロドロとした欲望に焦点を当てたのが、実は『観無量寿経』というお経なのです。

 何も家庭内暴力というのは、今に始まったことではないのでしょう。昔からそんなことはいくらでもおこっているのです。何が起こってもおかしくない、これが私たちの世界なのです。「家に限って、絶対そんなことはない。大変良い家だ」と言って、一晩明けたら滅茶苦茶になっていたと言うことがあるのです。近ごろの新聞などの事件を見たら、そんな状況を目の当たりにします。

 この阿闍世や提婆達多の話を聞くと、「何と悪い奴やな」と思います。しかし親鸞聖人は、この人達を「権化の仁」と言われます。「権化」とは仮ということです。「仁」とはいたわしく思う心のある人のことです。つまり阿闍世も提婆達多もただの人ではなく、浄土から現れた仏様だというのです。つまり本来は仏様であるような方が悪凡夫の相を取って顕われてきて、そして悪人を救っていくというありさまを演じて見せたというわけです。何でそんな悪人の姿で現れて来たのでしょうか。実は、こういう罪深いものがお念仏によって救われていくことを教えるために、仮に悪人の姿で現れたというのです。

 親鸞聖人はそういう提婆達多だとか阿闍世の様な悪逆を行っていくものの中に、阿弥陀さまの救済の意思を読み取られたということでしょう。よく「不時災難が来たら困る」といいます。やはり不時災難が来たら困ります。けれども世の中は何が起きてくるか分からないのです。悪いことが来ないようにできるだけの用心はしなければなりません。しかしそれよりも、この世の中というのはどんなことが起こってきても不思議ではないのです。それがこの世の中なのです。だからそれだけの覚悟を決めて、そこから何を学ぶか。それが一番大事な事だという覚悟を決めて生きることを知らせるのが実は仏教なのです。

 だから仏教というのは不時災難が来ないように祈る宗教と違うのです。どんな不時災難にも耐えて、しかもそれを超えていく智慧の眼を開いていくことなのです。不時災難に「おお仏様が来なさった」という、辛い状況の中で仏様を見るというのが仏道なのです。おそらく親鸞聖人は、まわりにいる恐ろしいものの中に仏様を見た人なのです。あの時代に90歳まで生きるというのは相当にストレス解消が上手でなければできません。そういう恐ろしい事件の中に仏のお手回しを感じ、恐ろしい人間の中に仏の相を見るというような転換が行われた人だと思うのです。

 インドから遠く離れて日本で、この場所で説かれた教えに、今、遇っていることの不思議を、尊く味わう一時でした。

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