浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

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本願寺の歴史(12)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)6

 1457年、蓮如(れんにょ)上人43歳の6月に、父・存如(ぞんにょ)上人が62歳の生涯をとじられました。存如上人は蓮如上人の父であるとともに、上人に聖教(しょうぎょう)の手ほどきを与えてくれた唯一の師でもありました。蓮如上人の継母の如円(にょえん)は、この日の来ることを予期して、手回しよく実子の応玄(おうげん)留守職(るすしき)(本願寺の住職)につける工作に没頭していました。中世の本願寺の留守職は、必ずしも長子相続とは定めておらず、在世中に譲状(ゆずりじょう)(後継者指名状)をしたためて跡継ぎを決めるのが慣例でした。実悟(上人の十男)の『捨塵記(じゅうじんき)』によれば、

兼寿法印(けんじゅほういん)(蓮如上人)は嫡子(ちゃくし)たるにより御譲状己下(いか)ことたしかに本願寺住持たるべき由

と、確かに蓮如上人にあてた譲状があったといいますが、本願寺には門主代々の譲状が保存されているのに、なぜか蓮如上人宛のものだけが残されていないといいます。それはともかく、如円の必死の根回しが功を奏したのでしょう。葬儀でも異母弟の応玄が住持気取りで取りしきり、参列の親族や坊主衆や諸国の門弟の代表も、それを至極もっともな顔をして見ていました。蓮如上人は長子でありながら、片隅に押しやられたかたちでありました。

 ところが、葬儀が終わってから正論を吐く有力者が現れました。存如上人の弟・如乗(にょじょう)(蓮如上人の叔父で当時は北陸井波(いなみ)瑞泉寺(ずいぜんじ)住職)は存如上人の中陰(ちゅういん)すぎに上洛し、ただ1人強力に異議を唱えだしました。それによれば、「亡兄存如の意志はわかっている。それにそむいて応玄を修業している青蓮院(しょうれんいん)から呼びもどし、長子をさしおいて跡目につけるのはもってのほかだ」と、兄弟や親族、参集した諸国の門徒を勢力的に説得してまわり、大勢を逆転させました。何しろ正論であります。おそらく存如上人の片腕となって寺門経営に発揮してきた蓮如上人の手腕と、その将来性を諄々と説いたのが逆転のキーポイントであったのでありましょう。そして、ついに如乗は蓮如上人を留守職の座につけることに成功したのであります。

 これは本願寺の歴史にとって幸いでありました。この後継者決定の際に、親鸞(しんらん)聖人の持っていた袈裟や数珠などが蓮如上人に伝えられ、蔵にあった経巻や聖教などめぼしいものはすべて継母が夜中に持ち出し、大谷から逃げるように加賀山中の大椙谷(おおすぎだに)(現 石川県小松市)に退去しました。あとには味噌桶1つと100疋足らずの代物(銭)だけが残っていたといいます。蓮如上人はその時、「そのようなことに自己を乱してはいけない。大谷留守職としての本領を忘れぬことこそ肝要である。」と言ったとの逸話が伝えられています。蓮如上人の風格がよく(うかが)われる物語であります。

 上人の意図がただ一途に親鸞聖人の宗教に生きる宗教人たることにあったことがよくわかります。蓮如上人には味噌桶1つを貰うことの方が意義があったのであります。

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