浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(16)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)10

 越前国(現 福井県あわら市)吉崎(よしざき)の地は奈良・興福寺(こうふくじ)大乗院(だいじょういん)の所領で、当時の大乗院住持の経覚(きょうかく)の母は本願寺の出身でした。蓮如(れんにょ)上人は一度ならず経覚を訪ねて奈良に行かれ、また経覚は本願寺の破却の折、蓮如上人の安否を気遣うなどの間柄でした。

 1471年7月、蓮如上人は経覚の了承の上、吉崎に一寺を建立して本拠の地としました。これを吉崎御坊と言い、今日の吉崎別院であります。吉崎は現在の福井県あわら市に属し、石川県との県境に位置しています。ここは大聖寺川(だいしょうじがわ)の河口に当たり、辺り一帯、海とも湖ともつかぬ水の中に複雑に入り組んだ台地の1つで、急な断崖(だんがい)の上に広がった平坦地であります。現在のハピラインふくい線細呂木(ほそろぎ)駅に近く、福井市、加賀温泉郷も近くの所であります。

 永年京都を中心として勢力を維持してきた本願寺が越前へ移ることは衰退のように見えます。蓮如上人の強力な支持勢力であった堅田(かたた)衆はぜひともこの地を離れないようにと懇請しましたが、上人は留まる気がありませんでした。堅田は比叡山(ひえいざん)の真下であります。ここにいる限り、比叡山は自分に楯突くものと見て警戒を怠らないでしょう。すでに度々攻撃にさらされています。これ以上刺激するのはよくないという考えであったでしょう。このような時、無益な抵抗を続けて、自他共に傷つくことをしたくないというのが上人の賢明な処世の術でありました。それは、おそらく永年の不遇な時代に身をもって学んだものでしょう。

 北陸地方は親鸞聖人以来、永年にわたって真宗の信仰が隅々まで行渡ったところであります。信者の大部分は農民であり、日常は過酷な労働と貧困に苦しみ、現世には何の希望もなく、それだけ来世の幸福を願望する心が強かったのです。それに答えたのが浄土真宗の教えでありました。

 吉崎御坊の建立は北陸一円の真宗門徒の間に、異常な興奮と感激を呼び起こしました。彼らは町ごと村ごとに誘い合い、群を作って吉崎へ参詣に来ました。京都の本願寺は少し遠すぎますが、吉崎だったらそんなに遠いという感じがしないのであります。1泊、2泊の旅行にも手頃な場所であります。そのような近い所へ本物のご法主が来てくれたということも感激の種でありました。このような次第で吉崎に参詣する者の数が急に増えました。

 このように各地の門徒たちが団体を作って参詣に来ると、この人たちを泊める宿舎が必要になってきます。吉崎に次々と建立された寺々では、これらの門徒のために宿坊を作り、給仕役をおいて接待に努めます。このような宿坊を多屋(たや)といいますが、これが100軒も200軒も立ち並んで、まるで旅館街という景観を呈しました。このようにして諸国の名刹の周辺にある門前町・宿場町と同じようなものが吉崎にも出現したのでした。

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