浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(19)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)13

 蓮如(れんにょ)上人による多くの墨書の「六字名号(ろくじみょうごう)」の授与、誰にでもわかりやすい『御文章(ごぶんしょう)』による教化、みんなで唱和しやすい「正信偈(しょうしんげ)和讃」の出版等により、吉崎(よしざき)を中心とする門徒は数万人と言われるまで増加しました。

 北陸地方には白山社の系統に属する平泉寺(へいせんじ)などの有力寺院が多くあり、また、農民が結束して年貢の未納や領主に対する闘争を断続的に行っていました。「守護・地頭」と称される領主勢力や旧来の寺院勢力は、北陸地方の人びとが大挙して吉崎に参集することを、きわめて危険で不穏な行動と見なし、吉崎に圧力を加えようとしていました。このため蓮如上人は門徒たちの反社会的行動などを戒めた「(おきて)」を示されました。その内容は、諸神・諸仏・諸菩薩を粗略にあつかわないこと、守護・地頭などの支配者の命令を軽視しないこと、他宗を誹謗しないこと等の11箇条からなっています。

 この「掟」は蓮如上人が吉崎の地で人びとと共に真実報土(しんじつほうど)の往生を遂げるために、心静かに念仏の道を求めたいと思っていましたが、今生は乱世のために思うにまかせることができません。先般は加賀国の武士が吉崎に攻撃をしようとしましたが、多屋衆の支えによってようやく事なきを得て無事に過ごしていました。このような世相の中にあって無事に念仏相続するためには「掟」を守らなければならないというものでした。

 北陸地方の人びとは、必ずしも蓮如上人の「掟」に従うことができず、加賀国では一揆が発生しました。しかし上人の気持ちを理解することができたので、上人に対する信頼感は深まる一方でした。

 1474年になると加賀国の守護・富樫(とがし)家の内紛が目立つようになりました。蓮如上人の憂慮にもかかわらず門徒たちの一部には、この内紛に乗じて戦闘行動に出ようとする動きも見られました。また同年3月には門前の多屋(たや)から出火して本坊や多屋が焼失、同年7月には遂に加賀一揆が生じるなど、大事件が相次ぎます。このように緊迫した北陸地方の政治状況は、蓮如上人の教化の自由を阻害するものがありました。このために蓮如上人は1471年以来、4年数カ月にわたって居住された吉崎を退去することを決意され、翌8月に若狭国小浜(おばま)(現 福井県小浜市)、丹波国(現 京都府)、摂津国(現 兵庫県・大阪府)を経由して、年末までには河内国茨田(まった)郡(現 大阪府枚方市)の出口(でぐち)へと移られました。現在の光善寺(こうぜんじ)がその遺跡ですが、この地は摂津国、河内国、和泉国、大和国(現 大阪府・奈良県)への交通の要所にあたり、教化(きょうけ)活動でも重要な箇所と思われたのでしょう。

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