SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

本願寺の歴史(22)

蓮如上人(本願寺第8世)16

 山科本願寺の建立を始めた頃の蓮如(れんにょ)上人は43歳で、門主になってから20年を経過していました。この間、幾多の困難を克服して地方の教化(きょうけ)に尽くされたこともあり、本願寺の門徒数はかなり拡大していました。まだ門徒となっていない人びとの中にも、蓮如上人の名声を聞き、帰参を願う者も少なくなかったと思われます。村落の自立をはかっていた人びとには精神的な支えが必要だったのです。

 このようにして本願寺教団の本拠が定まると、真宗諸派の帰参が相次ぐようになりました。かつては本願寺派よりもはるかに大きな勢力であった仏光寺派、木辺派、出雲路派なども上人に追従する門徒の動向に押されて、門主ぐるみで本願寺の傘下に加わりました。これにより本願寺教団は一層巨大化してゆき、全国的教団としての基礎を築いたのであります。

 蓮如上人は75歳の時、実如(じつにょ)上人へその職を譲られ、ここに本願寺第9代が誕生することになりました。いまだ健康であった蓮如上人がどのような意図で引退されたのかは詳らかではありませんが、成すべきことを遂げ念仏三昧の生活に入りたいためであったと伝えられています。しかし引退のあとも大いに教団の発展に尽くされております。

 蓮如上人は引退ののち山科本願寺の近くに南殿と呼ばれた隠居所を建て生活されますが、引き続いてご本尊や『御文章(ごぶんしょう)』を授けられておられます。また地方教化にも尽力されており、決して念仏三昧の隠居生活に始終されたのではありません。

 地方教化の結果、新たに紀伊国(現 和歌山県)や大和国(現 奈良県)、瀬戸内地方に教線が定着しはじめました。そして明応5年(1496)には82歳のご高齢にもかかわらず、摂津国東成郡生玉(いくたま)庄大坂(現 大阪市中央区)石山に寺地を得て、大坂御坊の建立を始められます。この土地はNHK大阪放送局旧局舎のあたりであると言われており、当時、京都や摂津国、河内国、和泉国への交通の要所でもあり、また瀬戸内海への海上交通も至便な場所でありました。大坂御坊は新たに展開した紀州や西国地方の門徒との交流を深めていく上で格好の場所でした。

 大阪に御坊が完成しておよそ半年ののち、84歳になられた蓮如上人は身体の不調を覚えられるようになり、翌年には衰弱は甚だしくなり、死期の近いことを意識された蓮如上人は2月には大坂御坊内に葬所を設けさせ、ここで往生を迎えようとされました。しかし急に山科本願寺に帰られることになりました。これは実如上人の懇願を聞き入れたためとも伝えられています。

 山科本願寺においては、御影堂の祖像はいうまでもなく、参詣の門徒たちや愛馬とも別れを告げられ、明応8年(1499)3月25日(新暦5月14日)に85歳の生涯を閉じられました。院号は信証(しんしょう)院と称され、墓所は山科に造営されました。

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