SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

本願寺の歴史(3)

善如上人(本願寺第4世)

 覚如(かくにょ)上人の後半生は本願寺を中心とした教団の形成に最大の努力を払われたのですが、上人の時代には門徒の統制は必ずしも、うまくいきませんでした。地方の門徒は別に本山を設け、それぞれに所属し、高田(たかだ)派、仏光寺(ぶっこうじ)派、木辺(きべ)派等の諸派を形成し、本願寺の勢力をはるかに凌いだのであります。

 このように覚如上人は本願寺の確立のために幾多の努力を払われたのですが、それは今日の本願寺教団の出発点としての意味をもっているのであります。上人は観応2年(1351)、82歳で逝去されました。没後にその遺徳をたたえる絵巻物の『慕帰絵(ぼきえ)』(重要文化財)、『最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)』が編集されております。

 覚如上人の長男の存覚(ぞんかく)上人は覚如上人の意志とは異なり、諸派の自立を認める行動をとられたりして、宗政の在り方をめぐり意見を違えたりしたので父子の関係の義絶がおこなわれたため、在覚上人には留守職(るすしき)(本願寺の住職)を譲られず、次男の従覚(じゅうかく)上人の子の善如(ぜんにょ)上人に譲られました。

 善如上人は観応元年(1350)、19歳の若さで本願寺第4世門主となられました。したがって宗政は叔父の存覚上人、父の従覚上人が後見人となって協力されましたが、特に学識が豊かであった存覚上人は、聖教の書写、下付、および本尊の復・作製などの活動を積極的に行い、その存在は善如上人を凌ぐものがありました。しかし存覚上人は甥の若き善如上人に対して門主としての敬意をはらうことを忘れず、良き後見人としての叔父・存覚上人は善如上人が43歳になるまで存命しました。

 善如上人は能筆家であり、特に『教行信証延書(きょうぎょうしんしょうのべがき)』の書写本の筆跡において、その能筆ぶりを見ることができ、この全17帖からなる大部の書写本は上人が29歳の時、近江国伊香の門弟・成信に授与するために書写されたものであり、継職後の上人の教化活動の一端をしのぶことができます。

 善如上人の在職は、康応元年(1389)2月29日(新暦4月4日)に57歳で逝去されるまでの38年の長きにわたりましたが、この間、南北朝の争乱の最中にあり、またこの頃は関東の荒木門徒の系統の了源が京都に進出し、仏光寺を建立して一派の勢力を拡大し、本願寺としては苦しい決して好条件の状態ではありませんでした。

 善如上人の前の覚如上人や従覚上人の頃の記録に、亀山天皇から本願寺を勅願寺とするとの綸旨をたまわったと伝えられており、又覚如上人が護良親王から本願寺ならび久遠寺の御祈祷所たるべき由の令旨を得ていたという記録があります。祈祷所といい、また勅願所と称することは、それがたとえ教団保全の策から出たことではあっても、親鸞聖人の立教開宗の趣旨からすればいかがかと思われます。しかも善如上人以後の本願寺は、比叡山の天台宗等の影響を強く受け、聖道教的な行儀・威儀を重んずる傾向が次第に濃厚になっていったようであります。

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