SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

本願寺の歴史(5)

巧如上人(本願寺第6世)

 綽如(しゃくにょ)上人が亡くなると、第6世宗主を第2子の巧如(ぎょうにょ)上人(1376~1440)が18歳で継職され、逝去される65歳まで在職されたので、宗主として活躍された期間は47年間におよびました。

 この間、当時の教化の最大の手段である聖教の書写と下付を子息の存如(ぞんにょ)上人や孫の蓮如(れんにょ)上人らの協力を得て、近畿・北陸地域の門徒の人たちに行われました。しかし宗政上の最も顕著な功績は、父・綽如上人の後を受けて、北陸地域の教化に乗り出し、北陸教線を進展させたことであります。巧如上人は父・綽如上人の建立された越中国(現 富山県)の瑞泉寺(ずいせんじ)を基点に越前国(現 福井県)への教線の拡大を図られ、越前荒川の門徒中へ弟の周覚(しゅうかく)を派遣されたので、ここに興行寺(こうぎょうじ)が建立され、同じく弟の頓円(とんえん)は越前藤島に進出し超勝寺(ちょうしょうじ)を建立しました。また瑞泉寺へは第4子の如乗(にょじょう)を住持としてすえられましたが、のちにこの如乗は北陸門徒の勢力を背景として、蓮如上人が第8代宗主を継職する時に蓮如上人を支持するなど大きな役割を果たしました。

 これらの越前の教化は、北上して加賀国(現 石川県)へも大きな影響を与えました。そして、この教化の過程においては、越前三門徒(前回の注参照)が他宗の影響を受けて異端を唱えたので、これを破斥するなど真宗の立場を堅持する姿勢を忘れませんでした。

 また、巧如上人が教化の一環として、大和国(現 奈良県)十津川の長瀬鍛冶(かじ)屋道場に下付された本尊は、いわゆる「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」と呼ばれる絵像本像であり、現在の絵像本尊の源流となるものであり、後に本願寺と門徒を結び付ける有力なものとなりました。

 巧如上人の時代の本願寺は、南北朝の争乱の最中であり不振を極めていました。当時は本願寺へ参る人もなく、人跡絶えてさびさびとしていたと『本福寺旧記』には書いてあります。その近江堅田(滋賀県)本福寺の法住は、はじめは本願寺参詣を志して入京しましたが、本願寺が前記の様にさびさびとしていたので、汁谷の仏光寺(前回の注参照)の方へ参りました。当時、仏光寺は『名帳』『絵系図』によって人気を集め、参詣人も多くすこぶる盛況を呈していました。その後、本福寺法住は仏光寺の内紛を見聞きして失望し、巧如上人のもとを訪ね、法住は祖父の善道以来の門徒であることを申し上げて本願寺に帰参しました。それ以後、巧如、次の存如両上人は法住をはじめ近江の門徒と密接な関係を持ち、両上人はしばしば近江に行かれたようであります。

 巧如上人は永享12年(1440)10月14日(新暦11月17日)、65歳で示寂し後を存如が継ぎました。上人の本願寺住持は48年に及びましたが、その後半は存如上人が巧如上人を扶助して教団の維持発展をはかったのであります。

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