SHOSENJI(浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺)

親鸞聖人の生涯(1)

出生から幼少時代

 ご案内の通り、当寺の今年の永代経(えいたいきょう)は、ご講師の都合で5月21日となりました。この5月21日はちょうど浄土真宗を開かれた親鸞(しんらん)聖人のお生まれになった日であり、この日は京都の西本願寺では、降誕会(ごうたんえ)と言う名の盛大なお祝いの法要や催し物が行われております。

 今回は親鸞聖人の出生から幼少時代を少し見ることとします。

 聖人はご自身で書かれた沢山の書物の中の何処にもご自身の経歴を殆ど書いておられず、又朝廷等の公文書にもその名が出ていないために、明治末期には親鸞は架空の人物で歴史上の実在ではないという説が流行しました。しかし学者の調査と研究や、大正10年(1921)に西本願寺で発見された聖人の内室・恵信尼(えしんに)さまの手紙などにより、今では聖人のご生涯がほぼ明らかになっております。

 聖人は承安(じょうあん)3年4月1日(新暦1173年5月21日)に現在の京都市伏見区の日野で藤原一門とはいっても下級貴族であった日野有範(ありのり)さまの子として誕生され、松若丸と名付けられました。

 その弧々の声は、吉川英治氏の小説『親鸞』によれば、

地殻を割って万象の芽が春へのび出すような力がある、そして朗らかなる生命の誕生を世に告げるような声だった

とあります。

 当時の貴族の仏教から一般民衆の仏教への転換をなしとげ、明治9年(1876)に明治天皇から「見真大師(けんしんだいし)」の諡号(しごう)を贈られた、鎌倉時代を代表する宗教家・親鸞聖人にふさわしい表現ではありませんか。

 聖人の幼少時代は貴族政治も没落し、政権を取った平家の最も勢力の盛んな時代でありました。聖人の生まれが藤原一門のすぐれた家柄であっても、すでにその威光もなく、聖人の幼少の頃、父・有範さまも色々の事情により宇治の三室戸寺(みむろとじ)に出家隠棲(いんせい)されました。母・吉光女(きっこうにょ)さまも早く亡くなられたと言われ、幼くして事実上両親を失われたわけで、伯父・範綱(のりつな)さまの養子となられました。範綱さまの養子となられたのは聖人だけではなく、5人兄弟のうち3人までが範綱さまに育てられ、全員が出家されています。よほどの生活の困窮と複雑な家庭事情が有ったことがうかがわれます。そのほかにも聖人が4歳と7歳の時には大地震があり、京都の3分の1が焼失をするほどの大火災もあり、又京都で4万人を越す餓死者を出す大飢饉(ききん)がありました。

 このような騒然とした生きにくい時代に成長された聖人は9歳になられた春、伯父の範綱さまに連れられて、東山の青蓮院(しょうれんいん)を訪ね、慈円(じえん)和尚によって慌ただしく得度(とくど)の式を受けられ、名を範宴(はんねん)と改め、人生の悲しい業縁を担って出家をされたのであります。

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