親鸞聖人の生涯(10)
流罪3
親鸞聖人の流罪地への旅については何の資料もありませんが、琵琶湖北岸の港、海津を出発されて流罪地に向かう聖人の一行は、これより近江国(現 滋賀県)を後にして北陸道を越前国(現 福井県)に向けて進まれたと思われます。
この北陸道は天平時代の昔より北陸から京の都に向かう幹線道路で、所々に宿場町も栄えていたのですが、明治の初めに鉄道が敷かれ、現在の国道8号線や161号線が開通するにおよんで、それまで道幅も広く大名行列も通り、人びとの往来も激しかったであろう北陸道も急速にさびれ、今では山仕事をする人びとが登り降りするだけの沢道で、昔の面影は全くないとのことであります。
その北陸道をたどってゆくと、聖人にまつわる伝承や旧跡が不思議なことに数多く今に残されております。
先ず海津を北上して、約5~6キロの所に愛発山があります。『義経記』には
厳石峨々として、路すなおならぬ山なれば…
左右の、み足より流るる血は紅を注ぐが如くにて
と、大変な難路であったらしく、聖人も多分、足を痛められたことでしょう。
そのためか、あるいはその付近で日が暮れたのか、滋賀県『高島郡誌』には
越前敦賀郡山中村に有乳山医王院あり…
承元元年(1207年)親鸞越後に謫せられ(罪せられること)し時、此に宿して村民に教化す
とあるように、山の峠を下りたところにあった伝教大師建立の医王院に宿泊されたとされております。
本願寺第3代覚如上人の『御伝鈔』によれば、聖人は
もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。
と述べられているように、流罪地に向かう道すがらですら、私の救われてゆく念仏の法をお説きになっているのには、ただただ頭の下がる思いであります。
一方「炭焼き小屋」に泊まられたとの伝承もあります。小屋の主人の弥次右衛門は聖人に小豆を煮てもてなしたところ、大変お喜びになったといいます。聖人は小豆が好物でした。だから今でも報恩講には小豆ごはんや小豆がゆを煮て、お同行に振る舞うという、全国的な広がりを持つ習慣の1つの原風景が、この伝説の中に見ることができます。
その医王院も今は廃屋となり、聖跡を示すものとしては、雑草の中に淋しく立っている2本の石柱があるのみであります。その石柱は、浄土真宗のご門徒と思われる大阪播磨屋弁右衛門が江戸時代末期の1814年3月2日に建立したもので、1つの石柱には「親鸞聖人有乳山旧跡」、他の1つには聖人の歌と伝えられる「御詠歌、越路なるあら血の山に行きつかれ、足も血しほに染めるばかりぞ」の詩と弁右衛門の名前、建立年月日が刻まれているとのことであります。