親鸞聖人の生涯(13)
流罪6
越中国(現 富山県)の国府の地(高岡市伏木)を出発し、流罪地の越後国(現 新潟県)に向かわれた親鸞聖人の一行が通られた行程は、京都を出られてからと同様に、何の記録も残っておらず、ただ推測するだけであります。陸路で能登半島も通過したことでもあり、このあたりで、伏木か滑川や魚津の港から海路を船で流罪地へ向かわれたのではなかろうか、と言う説もありますが、これらの説は適当ではなさそうです。何故かと言えば富山から新潟の流罪地にかけての海岸線に数多くの聖人にまつわる聖跡や伝承が今に残されているからであります。このことを考えると聖人の一行は多分、海岸に近い道を通られたことでしょう。
先ず、富山市を少し歩いて行くと東北に町袋という地があります。そこの常願寺川の堤防で休憩をされたらしく、「聖人袈裟掛けの松」という聖跡があります。次の黒部市付近にも「聖人腰掛けの石」とか、根が1つの「三本柿」などの伝承もあり、更に東に少し行った所の入善町の田んぼの中に「腰掛けの石」があり、更に少し東の朝日町横尾にも「腰掛けの石」と、聖人お手植えの欅の木があります。
このようにして越中国を過ぎられた聖人一行は、遂に最後の国である越後の地に入られます。越後に入るとすぐさま「親不知」「子不知」で知られる難所が行く手を阻んでおります。この辺りは北アルプスの山脈の断崖が日本海に切り立つように迫っている所で、今でこそ、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン(旧 JR北陸本線)はトンネルで、又国道は断崖を切り開いて走っておりますが、当時の旅人は海と山との接点、つまり波打ち際を波間を縫うように走り抜け、親は子を、子は親を振り返るゆとりもなかったことから、このような地名が付けられたと言われています。聖人一行もこの危険な場所を命がけで抜けられたことでしょう。
「親不知」を過ぎ少し行ったところの西蓮寺(糸魚川市田海)には、聖人一行が姫川を渡るとき、川が増水して歩いて渡れず、船に乗る時に船頭に船賃を要求され、船賃の代わりに「六字名号」を渡されたという「船賃の名号」と呼ばれるものが伝承されております。
このような難所を通過された聖人一行は、小野浦(現 糸魚川市木浦)から船に乗られたようであります。このことは昔の本にも「聖人は小野浦から船に乗られ、八里(約30km)の海上を経て赤岩に着かれ、ここから居多ヶ浜に上がられた」と伝えられています。
居多ヶ浜には聖人をしのぶ碑があり、その1つは、海に向かって建つ「親鸞聖人御上陸之地居多浜」、もう1つは友2人を従えて上陸されたとする菅笠に杖をつかれた姿の鋼板のレリーフです。太平洋ベルト地帯に住む我々は、雪といえば美やロマンの対象として見がちですが、越後の雪はそんなに生優しいものではありません。聖人も、そのような中で東国(関東)に移られるまでの約7年間、冬は北風に身を切られる生活をされたことでしょう。